ぜひぜひ読んでほしい本のショートreviewをUPします!
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電気ちゃん
 自らを、「電気」と名乗る中年男に拾われた16歳の家出少女・鳥子。鳥子は、電気ちゃんと暮らすようになって、忌々しい足音のような耳鳴りから解放されていた。

 電気ちゃんは、鳥子をウサギのぬいぐるみのようだと言い、鳥子は、日に日に電気ちゃんを男として意識するようになる。

 乳がんの宣告をされた26歳OLの寿々。そして、寿々と一緒に暮らす、恋人で、はっとするような美人のホステス・紫。

 崩れ落ちそうなアパートを中心に語られる連作短編。

 私が、一番魅かれたは、きみ夜だ。

 バツイチで38歳のきみ夜は、セックスに対しての欲求がない。最初は、地味で男性受けしない自分の容姿を補うために学んだ手料理だが、今は、誰もが認める料理上手。

 そこに、アルファベットで呼ばれている男たちが、晩ご飯を食べだけに現れる。

 男に手料理を振舞うことだけで、満足し生きている実感を得ているきみ夜。

 男の嫉妬より、自分の気持ちより、ヴィタメールのチョコレートの方が、生々しく存在する事実。



 今、人間という生き物は、動物であることを、どこかで放棄している。

 この物語は、生と性を描いているはずなのに、未来への強い欲求と、繁殖への意思がない。

 描かれたのは、今と、淡々と流れる日常の、生も性も、時には暴力も内包した、静電気のようなわずかな痛みと違和感だ。

 人々は、確かに生きている。

 

 動物としての営みを放棄していることを確認すらできない現代人の、狂気と紙一重の静かな時間が描かれている。この物語を知的だと感じ、その刹那的としか言えないはずの行動に、なんとも確かに腑に落ちる感触をおぼえるのは、読者もまた、動物であることに、どこか自信の持てない現代人だからではないか。

 

 物語は、なんとも不思議なリアリティを放ちながら、自由のようでいて、不自由な女たちが奏でる、それぞれの生きている実感を静かに密やかに描いている。




          電気ちゃん

               書籍データ 毎日新聞社 楠章子 201309
| 22:32 | 一般書 | comments(0) | trackbacks(0) |
イタリアの猫
 岩合光昭の写真との出会いは、1997年。
 たまたま図書館の、新刊書のところで目に留めたのが、岩合光昭の写真集。『ブルース・キャット』『ボサノバ・ドック』(筑摩書房)の二冊であった。
 町の風景の中の犬と猫の姿をとらえていて、その洒落た題名と共にインパクトがあった。
 面白いコンセプトだと感銘を受けたが、その後、あれよあれよという間に有名人になってしまって、へそ曲がりの私は、あまり人前で、岩合光昭の写真について語ることはなくなった。

 久々ではあるが、書店で見かけて、欲しくてしかたなくなってしまった本である。

 猫という生き物は、なんと哲学的な造詣をしているのだろうか。
 イタリアの美しき街並みにいる猫は、自由で哲学的で、人生の憧れ全てを象徴しているようにさえ見える。

 ほんとうの意味で、ヒトの暮らしに余裕がなければ、ネコに優しい世の中にはならないと思います。

 本書で、岩合はそのように記しているが、写真には、そこに写されていない、人々の暮らしと、人生の楽しみ方が存分に表現されているように思う。

 岩合の写真を見ていたら、猫のように生きたいと思う。

 待つことも待たせることも、臆せず、厭わず。
 自由に、我がままに。
 勇気を懐に、のんびり歩き・・・である

            イタリアの猫
                書籍データ 新潮社 岩合光昭 201307
| 15:41 | 一般書 | comments(0) | trackbacks(0) |
クロスボーダーレビュー 2009-2013
 小説家が美術展を、美術家が映画を、毎月一本選び、日本経済新聞紙上で論じる。
 二人の論客の四年間のレビュー、ベストセレクション。
 なんとも魅力的な一冊である。

 新聞紙上という、知識のない人をも巻き込まなければならない宿命の中で、見たこともない現代アートや、マイナーな映画の輪郭をどう表現し、論じるのか。
 見た人には、なるほどと新たな視点を示唆し、見ていない人には、見なくてはと心を焦らせなければならない。
 言葉豊かな論客が挑む、表現者としてのレビュー。

 とにかく読んで欲しいの一言に尽きるが、心に残ったフレーズを少し。

 横尾忠則全ポスター by平野啓一郎
 高度経済成長の真っ只中にあって、横尾のポスターは、物欲に対して、ひたすら体験の欲望を刺激する。他方、テレビという動画メディアの圧倒的な影響力に対して、紙一枚の静止画による表現の可能性を追求している。

 ゲンスブールと女たち by森村泰昌
 弱さを克服しようと頑張る少年のおかしみを表現することが、ゲンスブールへのオマージュとなる。戯画は揶揄ではない。戯画はあまりにも人間的であるがゆえに発生する喜劇への、限りない愛と肯定の表現なのである。
 


                     クロスボーダーレビュー
           書籍データ 日本経済新聞 森村泰昌 × 平野啓一郎 201310
                       
| 21:34 | 一般書 | comments(0) | trackbacks(0) |
きみはいい子

 桜が丘小学校区で起きた日常の物語。
 連作短編5作が収録されている。

 どの話も、子どもの虐待を基点に描かれている。

 特別ではない。
 不明な点も多い。
 事件とも呼べず、少し空気を揺らしながら、誰かの心に深い傷を残し、流れていく時間。
 誰かの日常に、私の日常に少しかかわりながら、それは日常の風景にかがり縫われるように、少しの違和感を残し、なんでもない一枚のような顔をして存在している。

 たぶんそれが真実なんだろう。

 だけど、差し伸べられる手を、みんな待っている。
 自分が悪いと自分を責めながら、だから、自分の子どもにも虐待を連鎖すると言い訳しながら。今の息詰まるような事実に身を縮め、忘れられない記憶に拳を握り締めながら。

 この本は、誰も責めない。
 虐待する側も、される側も。
 すべて、流れ行く時に、かがり縫いしながら、それでも、ふと思い出した事実に、隣人の一言に、教師としては適切ではない言動に、救われる瞬間を描いている。

  虐待を描く本には、幸福なあなたが知らないことを教えてあげるといった読者を責めるトーンのものや、虐待を行う相手を怪物に仕上げ、そういった体験を持つ読者に激しく共感を強いるものが多いように思う。

 この本には、そんな強い感情はない。

 やわらかく日常として存在する。

 そして、辛い時間を過ごしているものも、生きる力がある限り、生きる力になるものを、生み出せるのだと、そんなことを感じさせてくれる作品集である。

              きみはいい子 (一般書)
                  書籍データ ポプラ社 中脇初枝 201205

 

| 22:34 | 一般書 | comments(0) | trackbacks(0) |
京都岩倉 実相院
 旅好きの友人から、実相院に行った話を聞いた。
 磨かれた床にもみじがうつる。
 夏には緑、秋は朱に、冬は白に。
 それだけのことなのだがなんとも美しいという話だった。
 興味を魅かれて写真を見せてくれと頼んだのだが、室内は写真厳禁とのこと。 

 どんなものかと、インターネットで検索するうちに、この本に出会った。

 油絵のパレットのようでありながら、極めて日本的な風景。
 どこか未完成な流れるような風景でありながら、近寄りがたい完璧さを持つ。

 美しいものだなと思った。

 美しい庭や壁画もふんだんに紹介されている。
 一度行ってみたいものだと思う。
                     京都岩倉 実相院
                   書籍データ 光村推古書院 室田康雄 写真 200811
| 23:30 | 一般書 | comments(0) | trackbacks(0) |
あさ / 朝
 この本を買った時、某コーヒーメーカーのCMで、収録の「朝のリレー」が使われていた。
 なんとも広がりのある詩が、プリンスエドワード島をはじめとする美しき写真にのせられていて、始まりを予感させるような、爽やかな、それでいて引き締まるような感触を与えてくれる。

 何度目かの読了になるが、その時の気持ちで、お気に入りが変わるのが詩集の良さだ。
 どれも良いけど・・・谷川俊太郎。

 今回、紹介したいのはこの詩。

 
朝のかたち

 昨夜からおもいつめていたことが
 果てのない荒野のように夢に現れ
 その夢の途中で目覚時計が鳴った
 硝子戸の向こうで犬が尾を振り
 卓の上にコップにななめに陽が射し
 そこに朝があった

 朝はその日も光だった
 おそろしいほど鮮やかに
 魂のすみずみまで照らし出され
 私はもう自分に嘘がつけなかった
 私は<おはよう>と言い
 その言葉が私を守ってくれるのを感じた

 朝がそこにあった
 蛇口から冷たい水がほとばしり
 味噌汁のにおいが部屋に満ち
 国中の道で人々は一心に歩み
 幸せよりたしかに希望よりまぶしく
 私は朝のたかちを見た

 


        あさ/朝
        書籍データ アリス館 谷川俊太郎・文 吉村和敏・写真 200407
| 23:33 | 一般書 | comments(0) | trackbacks(0) |
祈りの幕が下りる時
 東野圭吾の最新作。そして、「加賀恭一郎シリーズ最新作」である。

 出版されたばかりのミステリーのストーリーを詳細に説明するほど野暮ではない。

 家を飛び出してきたという訳ありの女が孤独に世を去る。
 しかし、プロフィールを失った女にも、彼女を大切に思う一人の男と、それを静かに温かく見守っていたスナックのママの存在があった。

 加賀恭一郎にとっては、家を出た、母のその後の人生。

 名作「赤い指」と対を成す、家族の物語だ。

 一人の女性が見知らぬ男の部屋で死体で発見される。その男もまた、行方がわからない。女性が、死ぬ直前に会っていた、元・女優で、今は演出家としてのその才能を世に認められた、角倉博美に捜査の手が伸びる。
 角倉博美は、かつて、子役の役作りのため、加賀恭一郎に剣道指導を頼みに来たことがあった。
 その接触は、果たして偶然だったのか?
 角倉博美は、中学生の時、父を自殺で失っている
 殺された女性は、博美にとって中学校まで同級生。二人をつなぐ、担任の教師は行方がわからない。

 この物語は、加賀の母の人生とどう関わっていくのか?
 母が、愛した男は、どんな男なのだろうか?

 事件が真相に迫る時、加賀の母の物語も明らかになっていく。

 事件の種明かしだけを楽しみにする読者には、上手い作家の手馴れたプロットと言われても仕方ないという思いもある。
 しかし、家族の物語として読めば、そのつながり方に、描き方に胸は熱くなる。
 所有しないことで、つながった家族。
 その切なく、深い幸せが、ここには描かれている。
 妻を孤独死させたことを悔い、一人で死のうとした父。
 そして、その死様を尊重し、受け入れることで父と関わろうとした加賀。
 本作では、加賀が掲載されてる剣道雑誌を、この写真があると、あの子の成長が止まってしまうと受け取ろうとしなかった母のエピソードが披露される。
 家族とは何か。一見破綻した三人の、時間も空間も共有することのない、確かなつながりが描かれている。
 
 この作品には動きがある。事件の舞台が、おなじみの東京・日本橋界隈の風物詩であることはもちろん、仙台、滋賀県の彦根と大きく動く。そして、角倉博美が演出する舞台のシーン、加賀が剣道に打ち込むシーンなど、二人の人生を象徴するものも、極めてビジュアル的な描かれ方をしている。
 きっと、すぐにドラマや映画になることを、作者も意識しているのではないだろうか?
 これは、けして、世俗的な意味ではない。
 この物語には、原発に関わる、下請けの下請けの仕事をする労働者たちの姿が描かれている。
 放射能を浴びる量と比例する賃金。ずさんな本人確認。そして、それに関わらざるを得ない男たちと、容易に失われてしまう存在の痕跡。
 そこで確かに働いていたはずの顔が確認できないうっすらとした恐怖を見るものに与える。
 物語の中で、声高に、原発への反対意思が描かれているわけではないし、その非人間的な労働環境を批判しているわけではない。
 しかし、この物語で、我々は、日々流されるニュースの裏に、漠然と感じていた不安を、物語の中で、人の個別の人生に関わる事実として実感するのではないか。
 その実感は、見るものに、無関心ではいられない強いものを与えるに違いない。その伝達は、人気作家の高視聴率番組であるが故に、絶大な影響を及ぼすはずだ。

「とんでもない。あなたはいつも、刑事が知らないことを教えてくれる」 
 これは、父を見取った看護士・金森登紀子への加賀の言葉だ。
 職業への尊敬から、相手への愛情を伝えようとする、少し不器用な加賀の表現方法に思わずこちらも笑みがでる。
 こんな言葉をかけられたら惚れるよなぁ。

 加賀恭一郎は佇まいの美しい男だ。
 その佇まいが存分に楽しめる一冊。

 映画化の際は、メインでないとはいえ、我が彦根市も撮影の舞台になることは間違いない。今後の動きが楽しみでもある。

                
                   書籍データ 講談社 東野圭吾 201309 
| 22:34 | 一般書 | comments(0) | trackbacks(1) |
オレたちバブル入行組
 今や、社会現象のようになっているTBSドラマ「半沢直樹」(2013)の原作本である。
 今回手に取った本作は、ドラマでは、「第一部大阪編」と呼ばれているらしい。
 らしい、と書いたのは、残念ながらドラマを見ていないからだ。そのうち、DVDになるか、再放送されるだろうと楽観的に構えている。

 「やられたら倍返し」のフレーズがひとり歩きしている。
 水戸黄門の印籠よろしく、大仰なキメ台詞が、そんなに大衆の心に響くものなのかと、最初は奇異な気持ちでこのドラマのヒットを見つめていた。
 飲み屋の愚痴だけでなく、会社組織の中のキャンペーンニュースなどにも使用されるようになって、なんとなく目を通さずにはいられないなぁという気持ちになったころ、池井戸潤の『オレたちバブル入行組』が原作であることを知った。
 あぁ、それなら読んでみよう。自分が、斜めに見ているほど陳腐なストーリーではないのだと、作者の名前を見て思った。

  さて、このキメセリフは、作中に、半沢直樹自身の言葉として登場する。

「オレは基本的に性善説だ。相手が善意であり、好意を見せるのであれば、誠心誠意それにこたえる。だが、やられたらやり返す。泣き寝入りはしない。十倍返しだ。そして       潰す。二度とはい上がれないように。浅野にそれを思い知らせてやるだけのことさ」

 物語は、半沢が融資課課長として勤める大阪西支店で、今まで取引のなかった難攻不落の「西大阪スチール」への融資話を、支店長・浅野が簡単に決めてくるところからはじまる。
 新人に毛の生えた程度の、中西が担当になり、半沢は課長として、十分な審査をしようとするが時間を与えられず、浅野のごり押しで、「無担保5億の融資」が決まる。
 しかしその後、優良企業と思われていた西大阪スチールは、粉飾決算が発覚し倒産、社長の東田は雲隠れし、5億円の回収が困難な事態に陥る。
 組織として責任を負うべき5億円の損失。当然、支店長して浅野が追うべき責任。
 しかし、浅野は、すべて半沢の責任のように振る舞い、本社や人事に報告し、詰腹を切らそうとする。
 浅野の報告を「すべて」と解釈し、動き出す銀行組織。その思考回路が止まったような、予定調和的懲罰の中で、半沢は、西大阪スチールに騙されて店を閉めざるをえなくなった下請け会社の社長・竹下、そして、行内で半沢のために動く同期の仲間たちの助けをかりながら、汚名を晴らし、5億円の回収を行うために動き出すのだ。

 物語の枠組みは、さながら、企業内活劇である。
 しかし、無礼な国税局の連中に無能を突きつけるシーンなどは爽快であり、行内でも、半沢直樹の啖呵に留飲をさげる場面もあるにはあるが、どこかすっきりしない気持ちが残る。
 それは、悪が、浅野支店長、その人ではなく、家族に向き合えば、極めて真っ当な人間性をもっている浅野のような人間を、薄汚く、傲慢にしてしまう銀行という組織そのものであるからだろう。

 西大阪スチールの計画を実行に移した後、半沢との信頼関係は壊れた。
 壊したのは自分。だが、支店長である自分のいじめに、しゅんとするどころか半沢は反駁をを見せた。それが浅野には許せなかった。理由と原因はなんであれ、上司である自分に刃向かうその態度が不愉快だった。死ねといわれれば素直に死ぬ、俺の代わりに責任をとれといわれれば泣き寝入りをする。そんな部下しか浅野は知らなかったし、求めてもいなかった。

 この浅野の独白は、浅野のパーソナリティーを描くための言葉ではない。
 この非人間的な考え方が、銀行という組織の常識であることろに問題があるわけである。
 浅野にとっては、自分が安住していた常識が崩れる戸惑いさせ感じるシーンだ。

 半沢直樹の新しさは、行内で、半沢を支える無二の味方が、地位と力のある上司ではなく、同じような地位で、同じような制約を受けている同期である点であろう。
 そして、半沢には、実家の中小企業の社長である父の、逞しい血が流れていることが随所に感じられる点であろうか。
 また、半沢と浅野の妻の対比も面白い。主役であるはずの、半沢の妻は、夫の出身校や勤め先に魅かれ、それを逃したくないと夫を攻め立て、それを隠しもしない無神経で正直な女であるのと対照的に、適役の浅野の妻は、夫の危機を微妙に感じとり、銀行に差し入れをもってくる繊細さと、勇気を見せる女である。
 何が正しくて、何が醜いのか? 組織の中での、役職や、取り巻きによって踏みにじられた理想が、常識としてまかり通る。組織を離れたとき、真に正しく、幸せなのは誰なのか。
 問いは、問いのまま、組織に飲み込まれる。

 そして、半沢は、浅野の息の根を止めない代わりに、「営業第二部の次長」という大栄転を浅野に望む。
 
 
銀行というところは、人事が全てだ。

 人事は公平ではない。出世するものが、必ずしも仕事のできる人間でないことや、真っ当な神経を持った人格者でないことは、銀行でなくても誰もがしっている事実だ。
 しかし、組織を変えられるのは、内部からのみ。その公平ではない人事で、もの言える立場でいなくてはならない。
 浅野をやり込めて物語を終わらせることもできた。
 しかし、半沢は、脅しマガイの取引で、理想のポストを手に入れる。
 これは、半沢が、組織の中で戦い続けることを選んだということでもある。

 この物語は、全編が怒りに溢れている。
 読んで、落ち着かなくなるのはそのせいだと思う。

 テレビは、設定もストーリーも変わっている部分があるだろう。日曜日の夜にふさわしく、少し勧善懲悪の色が濃くなり、少しスッキリと仕返しできるストーリーに仕上がっているかもしれない。
 その少しが、食事を取りながらテレビをみる視聴者を、どのくらい原作から遠くするのかは、私には解らない。
 
 だけど、会社組織の中で、「倍返しだ」という言葉を浮かれて使う神経の鈍さが、非人間的な仕組みを支えているのではないかと言いたい気分を、私は、今、どうすることも出来ないでいる。


                                   オレたちバブル入行組
                   書籍データ 文春文庫 池井戸潤 200712
| 10:12 | 一般書 | comments(0) | trackbacks(0) |
文は一行目から書かなくていい 検索、コピペ時代の文章術
 すすめられて読む本は、面白い。
 表紙に、作者のプロフィールが書いてあって驚いた。「芥川賞作家」藤原智美。
 まず、自分が選ぶ本に、この装丁はありえない。
 藤原智美さんの本は買っても、「芥川賞作家」藤原智美さんの本は買わないなぁ・・・そんな気持ちの動きを、ちょっと、愉快に思いながら本をめくる。

 表題どおり、ビジネス書である。
 しかし、「芥川賞作家」の書いたビジネス書。
 文章の本質は「ウソ」であるという視点から始まる。「ウソ」というのは、書き手の存在、緩急、価値観がある限り存在する演出である。

 ビジネス書ゆえに、テーマに逃げず、相手に的確に伝えるという視点で、文章作成の上達方法が書かれている。ビジネス文書の上達を望む人はもちろんだが、小説を書く人にも、違った視点で大いに刺激的であるに違いない。
 
 一番、印象に残ったには、『悪童日記』で時代の寵児となった、アゴタ・クリストフのこと。ノーベル文学賞候補としても名前があげられる彼女はハンガリー出身。21歳でフランス語圏に亡命し、生きていくためにフランス語を習得した。そのフランス語で書いた、この小説は、けして習熟していない語彙によってなりたっている。平易な言葉を並べた、短いセンテンスの文章。言葉の数は重要ではない。
 単純にして明快な表現が文章の力強さを生み出すこともある。

 検索、コピペがもはや常識になった、デジタル化の時代に文章を書き、考えるというのはどうことかを考察する後半部分も面白かった。
 便利でも、どんなに、自分の言葉に書き換えているという思いがあっても、コピペを利用せず、最初から文章を起こすことこそ、基礎の筋肉を鍛えるのだという論や、ネットサーフィンで、今取り組んでいる文章と、関係あるようなないような、無駄のような、必要のようなものをついつい覗いてしまう時間が、長時間書いているような錯覚をさせる。罪悪感がないのが性質が悪い。書くことに集中する時間をどのように自分で確保するか考えないといけないという意見には、思い当たる部分も多くあり、耳の痛い話であった。

 本書は、ツイッターの水平的、細切れの関心の集合体、そして「〇〇なう」という言葉が象徴するように、今しかない文章であることの役割と、仮想空間に消えていくものであるということを押さえた上で、情報として役割を終えず、読み手の血となり肉となる文章の代表は小説であると書いている。

 小説の文章はむしろ外とのつながりを拒絶して、孤独感を抱えるようにして自分を掘り下げていくことでしか、綴れない性質のものです。
 作家の井上ひさしは、「私たちの読書行為の根底には『過去とつながりたい』という願いがある。そして、文章を綴ろうとするときには『未来へつながりたい』という想いがある」(『自家製 文章読本』井上ひさし・新潮文庫)と書いています。

 伝わる文章とは、結局、書いたことの、過去と未来に責任をもって、自分の心の動き、内面に目をこらし、いちから自分の言葉、リズムで書き記していくこと。
 簡単なようで、難しい。
 やはり、文章は生き様なのだろうな・・・と、思う。

                      文は一行目から書かなくていい - 検索、コピペ時代の文章術
                       書籍データ プレジデント社 藤原智美 201105
| 21:21 | 一般書 | comments(0) | trackbacks(0) |
NORMA JEANE ノーマ・ジーン写真集
  マリリン・モンローが、本名のノーマ・ジーンを名乗り、駆け出しのモデルをしていた19~20歳頃に撮られた写真を前半に収録。後半も、マリリン・モンローとして、セクシーなつくられたイメージを踏襲しながらも、ふと何かが透けて見える気がする。
 特に前半の写真が好きだ。
 清潔で、清らかな感じさせする。
 屈託の無い笑顔が溢れ、見ているだけで幸せな気持ちになれる。


                          


                    NORMA JEANE―ノーマ・ジーン写真集
               書籍データ ぶんか社 アンドレ・ド・ディーンズ 撮影 199801
              
| 23:58 | 一般書 | comments(0) | trackbacks(0) |