ぜひぜひ読んでほしい本のショートreviewをUPします!
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犬たちをおくる日
 副題に「この命、灰になるために生まれてきたんじゃない」と、ある。
 愛媛県の動物愛護センターの職員たちの日常を追ったノンフィクションだ。

 所謂、保健所に引き取られた犬たちが、殺処分される現実。そのことを仕事とする職員たちが、どう残された犬たちの時間と向き合い、自分たちの仕事と向き合っているのかを描く。
 副題から、想像できる通り、現実は過酷だ。
 自分が捨てた犬が殺処分される前に、訪ねてきた家族は、再会に喜ぶ犬と記念写真を撮りたかっただけだと言って、再び、犬を愛護センターに渡していく。飼っていた犬を持ち込んだ、その足で、保健所の小犬に目をとめ引き取りたいという言葉を平気で口にする大人がいる。
 知ることになるだろうと想像をしていた現実よりも、はるかに無責任で非常識な人々に翻弄されながらも、それでも、その人を飼い主と、死の直前まで待ち続ける犬たち姿。

 それでも、この本を読み終った時、私の胸に残ったのは、悲惨な現実、悲しさよりも強い、愛護センター職員たちの、職業意識と、命への向き合い方への尊敬だった。

「動物が幸せな社会って、決まって人間も幸せなはずです。日本一動物にとって居心地のいい社会づくりを目指すってことは、県民にとっても日本一居心地のいい社会をつくることになりますよね」

 彼らは、一見普通に見えている家族が、犬を捨てていく残酷さだけではなく、安直に、なぜ、犬を飼ってやらないのか、去勢するのはかわいそう、犬を殺すなんてひどいという、無責任で無知な善意とも戦っている。
 その痛みに耐える姿としてではなく、捨てられる命を一頭でも減らす社会を目指す仲間たちとして描いていることに、命の尊さと、強さを感じる。



                
           書籍データ 金の星社 今西乃子・著 浜田一男・写真 200907
| 22:35 | 児童文学 | comments(0) | trackbacks(0) |
流れ星☆ぼくらの願いがかなうとき
 ゆうは小学校四年生。まじかに迫った、野球部のレギュラー選抜に心をとらわれている。
 夜、素振りの練習をしていたら、流れ星にしては遅すぎるうすい輝きの星を発見。星に願いをの言葉通り、ゆうは、レギュラーになれるように祈りをささげる。

 コーチに褒められたことのない ゆうと、劣等生流れ星の りゅうせい。
 その日から、二人の二人三脚のレギュラー獲得への道が始まる。

 この物語は、不思議な力を持つ流れ星の話ではない。流れ星は、その願いが叶うまで、一緒にいて、一緒に努力してくれる存在なのだ。前の人は、願いを叶えるまで20年もかかったと、申し訳なさそうに言う流れ星と、ゆうは、一日中、べったり一緒に過ごす。そして、願いを叶えて、りゅうせいを天に返してあげるというもう一つの願いを持つことになるのだ。

 自分の努力を身近で見て応援してくれる存在を得て、ゆうは努力にある種のやりがいを感じるようになっていく。ところが、そんな時、二年後にはエースになると誰もが認めている同級生ハヤトにも流れ星がついているということを、ゆうは知ってしまう。しかも、その流れ星は、りゅうせいに自慢ばかりする優等生の流れ星なのだ。

 レギュラー選抜に日に、現れなかったハヤトの願いとは? ゆうはレギュラーに選ばれるのか?

 願いを強く持つこと。四六時中、意識し続けること。自分の意志を口にすること。負けたくない相手にしっかり向き合うこと。そして仲間の存在。流れ星は、魔法も何も使わずに、一緒にいることで、ゆうに、夢を叶えるすべてのことを与えていく。

「じいちゃんがいうんだ。好きっていうのが、一番の才能なんだって」  
 元野球選手だったというおじいちゃんの言葉を素直に吸収し、そこに光を見るハヤトの姿にグッときた。
 何かを好きでいることは、当然のように、淘汰と競争に巻き込まれることになる。しかし、その見えない闇を切り開くのは、好きだという気持ちと、この素直で単純な向上心ではないか。

 ちょっと伏線めいた野良ネコの存在は、やりすぎではないかなぁと思わなくはないが・・・こめられた思いと、流れ星の扱いの新鮮さになんだか自分も何かを叶えることができる、叶えてあげられる気がしてくる一冊。

 一人でしかできないこと、仲間がいるからできること。夢の両面を、物語として描き切っている。誰かにすすめたくなる一冊。
 



             
        書籍データ 岩崎書店 白矢三恵 作 うしろだなぎさ 絵 201409
| 14:00 | 児童文学 | comments(0) | trackbacks(0) |
ダンゴムシだんごろう
 母さん思いで、兄弟思いのだんごろうが、親兄弟が腹いっぱいになれるダンゴムシ天国を求め、貧しい「石のすきま村」を旅立つ物語。
 旅先で出会う、人情と風景。股旅風のだんごろうが、片方しか触角のないアリの味方をして、アリひめさまを助けたり、心優しい相撲取りのオオツノヤマの恋を見守ったりしながら旅を続ける。

 「日本人の大好きな」とかつて言われたパターンをふんだんに使い、語り口調も心地よい。
みおちづるの、人情、任侠、旅がらすとは、サラ・ブライトマンが浪曲を歌うようなもの!?
ダンゴムシの好物「くされおちば」という言葉の響きも、なにやら異国のとてつもなく美味なるモノに思えて、心がときめく不思議さを味あわせてくれる。

 アリひめさまを守った だんごろう。たいちょうアリに、女王から褒美がもらえると告げられる。
「いやいや、たいちょうどの。ほうびをもらうのは あそこのアリです。あのアリが おいらをしんじてくれたから、アリひめさまは たすかったんです。」
 自分の行動を信じてくれる人がいるから、人は強く、自分の正義を脅かすものと闘えるのだ。やっぱり、この世界は、古くから伝承される大衆的なるものだと思いながらも、作者の操る美しい言葉に不思議なカタルシスを感じる物語である。
 
   

                                            
                              書籍データ すずき出版 みおちづる 作 山村浩二 絵 201405
| 19:34 | 児童文学 | comments(0) | trackbacks(0) |
たまたま たまちゃん
 うどん屋「さぬきや」の娘・たまちゃんは、さぬきやのたまちゃんと呼ばれるたびに、自分がたぬきにでもなったような気分で、もう少しおしゃれな名前だったらよかったのにとため息をつく。たまちゃんの中で、自分の対極にあると感じるのが、ケーキ屋のプリンちゃん。
 ある時、たまちゃんは、プリンちゃんも不満を持っていることを知り、二人は、入れ替わってお互いのお店を手伝うことにする。
 ケーキの味見も、一日に何度もすると飽き飽きすること。すぐに懐かしくなる、うどんの出汁の匂い。
 自分はうどん屋の娘で、その環境を愛しているのだと、子どもの、とりかえっこ願望を満たしながら気づかせていく。
 もちろん、青い鳥のセオリーの通り自分の近くに幸せはあると肯定しながらも、望んだ先に自分の存在を残してくるあたりが、現代っ子の逞しさ、児童文学の生命力を感じて面白い。
 たまちゃんは、パティスリー・アンで、クリームを細くうどんのように巻いたケーキを考案し、意気揚々と青い鳥のいる場所へ帰ってくる。
 ケーキの名前は、たまちゃん。
 足元にも望んだ先にも痕跡とエネルギーを残す。そのことに楽天的な可能性を感じ、子どもの・・・いや、自分の夢は無限大であることに気づかせてくれる。
 
 たまたま、うどん屋の子にうまれた、たまちゃん。
「けど、この、たまたまが、あんがい、だいじかもしれへん」

 愛された記憶、旅立つ勇気。
 人生に一番大切なものは、こうやって培われていくのだと思う。
 
 ただ、一つだけ気になることがある。
本作で、たまちゃんが
 「うちは、日本一 不幸な 小学校二年生なんやから」
と、いうシーンがある。取り立てて不自然ではないセリフであるが、私としては、『じゃりン子チエ』の名言「うちは日本一不幸な少女やねん」を頭に浮かべないわけにはいかない。
 関西弁というものは、どうして、関西弁のパロディにおちいるのだろうかと思う。
 作者が、ネイティブであるか否かは二次的な問題として、関西弁で書かれた多くの物語が、なぜか、その他にお住まいの方の関西弁イメージを模倣した、関西弁のパロディのような大仰さを纏い、物語を大味にする。
 関西弁は、劇場型言語である側面も否めないわけだが、はたしてこの物語の成功に一役買っているかと問われれば、安易な勢いと個性付けにとどまっているのではないかと厳しいことを言いたくなる。 
 

          たまたま・たまちゃん (ともだちがいるよ!)
      書籍データ 服部千春 作 つじむらあゆこ 絵 WAVE出版 201311
| 23:59 | 児童文学 | comments(0) | trackbacks(0) |
魔法職人たんぽぽ ファベル学園にようこそ!
 代々続く「仕立屋糸川」の娘、糸川たんぽぽは、ある日、「魔法使いの家系」であることを知らされる。
 そして、転校した職人養成学校での日々。
 魅力的で、謎の多い学園の面々。
 世の中は魔法使いに満ちていたのだ。
 たんぽぽは、どうやらママと因縁があるらしい、つんラギ先生に指名され、ガーラと呼ばれる運動会のようなものの選手に選ばれる。
 しかし、そのガーラは、人間界と交わった魔法使いを嫌う「正統派」と呼ばれる人々の攻撃からわが身を守るためにシミュレーションを兼ねた、選手と、正統派役の教師たちとの真剣勝負のバトルだったのだ。

 エンターテイメント色の強い読みやすい作品で、有能で包容力のあるジョー先輩や、ちょっと影のあるゴトケンの存在など、子どもたちが憧れる世界観を描いている。
 魔法学校、その先の運動会と言えば、『ハリーポッターと賢者の石』を彷彿とする人も多いと思うが、本作では、魔法を習うというのではなく、個人の能力を手に職をつける感覚で習得させるような位置づけで学校を扱っているのが面白い。乱暴な言い方かもしれないが、さながらギルドのようである。その、タテ社会的人間関係、先輩の存在が、この作品に、少し古めかしい異世界の奥行きを感じさせることに成功しているのではないか。
 また、運動会も、それは、近親憎悪がもたらす戦争のシミュレーションであり、多くの祭や、ゲームがその模倣だという現実をふまえた上で、使命、感情と危険を描く。熱狂と友情を、その祭の中には感じつつも、その先にある、起こるかもしれない争いへの恐怖が常に傍らにある感触は、現代社会のあり方を意識的に無意識的に再考させるのではないか。

 私が、一番魅かれたのは、
「最近、急におまえの様子が変わってきて、わしらは確信した。遅咲きではあるが、やはりおまえにはわが家の先祖<魔法使いファベル>の血が流れている。ふつうの学校ではなく、きちんとした教育を受けさせるべきだとな。」
と、いう たんぽぽのおじいちゃんの言葉。
 魔法使いにも、遅咲きという考え方があるのだと感じ入ってしまった。
 潜在能力が人前に現れる個人差。そして、それを見逃さない家族の存在。それを、当たり前のことのように認める世界観。
 なんと豊かで幸せな世界観だろうか。
 魔法使いという、生まれもっての才能、親から受け継いだ何かとしか思えない能力に、遅咲きという言葉を持ち込むことによって、救われるものは多いのではないか。
 それは、魔法のコントロール術を身につけるまでは荒れた生活をしていたというジョー先輩の過去と双璧をなす。
 自分の力は自分を苦しめる。それをコントロールし、他者に伝え、そして尊敬を得る。このサイクルを、実生活の中で我々は、人間性に求めがちだが、人間性と言う概念もまた、時の価値観に他ならない。そうではない、もっと、職人を育てるような、秩序だった何かで、発見し、育て、世に押し出してはいけないものだろうか。
 それが、教育というものかもしれないし、文化レベルというものかもしれない。
 なんだか、そんなことを考えながら読んだ。

 とにかく、遅咲きの魔法使い、糸川たんぽぽの物語である。
 続刊があるようだ。たんぽぽのこれからが楽しみである。



        
    魔法職人たんぽぽ ファベル学園にようこそ! (講談社青い鳥文庫)
      書籍データ 佐藤まどか 作 椋本夏夜 絵 講談社青い鳥文庫 201402
| 22:56 | 児童文学 | comments(0) | trackbacks(0) |
さらば自由と放埓の日々 スーパーキッズ2
 題と表紙がいいんだから、まずは言うことがない。
 
 スーパーキッズ2と謳われているからには、1についても触れなければなるまいが、本作単独でも楽しめるし、エピソード1として遡って1巻を読んでもまったく問題はない。

 前作に当る『スーパーキッズ 最低で最高のボクたち』(2011)を読んで、私が、度肝を抜かれたのは、その「才能」というものの描かれ方だった。
もらったものを花開かせる。その単純で、難しい尊い作業を、なぜか我々を含む大人社会は、否定する。この成果は、才能もあるかもしれないけど〜と誤魔化して、努力の賜物であったように見せかけたり、努力によって勝ち取ったステージだからこそ、そういう栄誉と人格は常に正比例していなければならないという価値観を押し付け、子どもに聞かせたがる。
 スーパーキッズには、子どもを縛りつけるそんな良識が存在しない。子どものままで、自分自身のままで、傷つけあい、認め合い、親からもらった天性のものを、存分に主張し、育て上げる。大らかな喜びに満ちた日々が、地中海のカラッとした晴天を感じさせる迷いなさと陽気さで描かれていて、この単純さの度胸のようなものに、今までにない新鮮さとパワーを感じたのだ。

 だが、1について言えば、物語は少々借り物であったように思う。アメリカ映画のような枠組みで、既視感のある物語展開だからこそ、大人や社会のプレッシャーから子どもたちを解き放ち、その明快な主張と共に面白いと言わしめたのだと思う。このあたりは作家の計算であろうとは推察されるが、これだけの個性的な登場人物を多く配置すれば、シリーズにするのは作家の義務!? 次作で、どう、この既視感を越えるのかが分かれ道になるだろうという思いもあった。

 そして、本作である。
 物語とテーマがピタッと照準が合って展開していく。
 経済と理想、その中での、子どもたちは自分の居場所を勝ち取っていく。新しい。
 読みながらニヤリとする。無用の心配に嬉しくなる。

 帯にある通り「金にならないヤツは退学、だって!?」という物語だ。

 前作『スーパーキッズ』で、彼らは、金から解放された。あるものは、貧乏ゆえに才能を伸ばすことが出来ず、あるものは才能ゆえに犯罪に利用されていた。その彼らが、IASK(インターナショナル・アカデミー・フォー・スーパーキッズ)につれてこられ、授業料も生活費も無料の隔離された場所で過ごすことになり、彼らは、自分の才能を、真っ当かつ純粋に認めたシステムの中で、何の心配もなく、自分の才能と向かい合うことができるようになったのである。

 それは、社会と人間の生き方の理想である。

 そして、作者は、その正当性を、自分でまぜっかえしてきた。
 
 お金の心配と切り離された理想、と、言っても、我々は社会の一員であり、経済の一部。教育現場に理想は必要だが、無菌状態ではいられないという物語なのである。

 経営者が変わり、学校もISA(インターナショナル・スーパー・アカデミー)と名前を変える。
 Thinking out of box (枠にはまらない、自由な考え方)
 がモットーであったのが、
 効率性、実効性、社会性
 に変わる。

 子どもたちも、自分の才能が、経済効果を生むものと生まないものに選別され、学校の言う通りの変化をとげないと、退学だと通告されるのだ。
 歌とピアノ、作曲、指揮を学んでいたリョウは、経済効果なしのレッテルを貼られ、アイドル歌手のようなレッスン、コンサートを組まれ、巡業させられるようになる。契約、肖像権、いろいろな言葉が飛び交う中、学校のやり方に反発を覚えながらも、リョウは、今、ここに仲間たちといるため、自分の居場所を獲得し、学校経営の背景に潜む悪を調べるために、コンサートをこなす。
 一見、言いなりになっているように見せかけながら、リョウは、仲間たちと、新経営者の不正を暴くため動いていく。

 溺れそうになる、パオラ先生を、リョウが、金儲けのコンサートで歌うはずだった「ピーターと狼」を歌い励まし救助する。

 音楽。ボクと音楽。
 音楽があるから、こわくない。

 もちろん、悪は成敗される。
 しかし、子どもたちが無菌状態にかえるわけではない。

 リョウは、観客とセッションするという楽しみを獲得し、人命も助けうる音楽の「俗」を身体に落とし込む。その上での音楽、自分の芸術を考えられるようになるのだ。
 
 校名はそのまま残る。その校名を、リョウは、意味ある改革であったと言う。
 IASK(インターナショナル・アカデミー・フォー・スーパーキッズ)ではなく、ISA(インターナショナル・スーパー・アカデミー)。

 だって、ボクたち子どもは誰だってスーパーキッズなんだから。スーパーじゃなきゃならないのは、学校のほうだ。

 この物語を、学校や社会批判と読むべきではない。
 没個性の中の個性、経済活動の中の芸術、聖の中の俗、俗の中の聖、そのすべて併せ呑み我々は自分の才能と向かい合わなければならない。
 子どもたちの怒りと仲間意識、そして獲得した、併せ呑んだ確かな何かは、こちらをも元気にしてくれる。
 生命力とエネルギー、そして才能と可能性が輝いている。
 
 抑圧の中からつかみ出した何かを、経済にまみれた芸術のなかから見つけた、それでもゆずれないものと、経済の中にこそある真実を、自分のものにできるからこそ、その混沌とした世の中で、人は自分を守れるのではなかろうか。

 リョウが、意味ある改革と言った強さと理解を、理想と、現実にしか分けられない大人は学ぶべきなのだと私は思う。


            さらば自由と放埒の日々 スーパーキッズ2
                書籍データ 講談社 佐藤まどか 201310
| 23:30 | 児童文学 | comments(0) | trackbacks(0) |
オバケの長七郎
 五歳の長七郎は、しろくて丸いオバケ。
 上手く飛べないし、消えることもできないし、嬉しいとピンクになってしまうので人を怖がらすこともできない。
 そんな長七郎と、一緒に暮らすことになった、古道具屋の源ジイ。二人の日常を描く。

 長七郎を供養して成仏させようとするおしょうさんへの源ジイの言葉が良い。

「うるせえ! きげんよくメシくって、へぇこいてわらっているようなヤツは、オバケじゃねえ! たとえオバケだとしても、こいつは、生きているオバケだ!」

 オバケは人とは長く時間を共有できないのが物語の常識であった。
 だからこそ、人は限りある命の切なさを思い、今流れる時を考えた。

 しかし、この物語は違う。
 オバケの長七郎は、確かな存在として、源ジイと出会い、共に生きていく。

 そんな単純な事実が、なんとも幸せな気持ちにしてくれる。
 語り口の良い8編の短編連作。

 

                     オバケの長七郎 (福音館創作童話シリーズ)
            書籍データ 福音館書店 ななもりさちこ 作 くむらなおよ 絵 201206
| 22:22 | 児童文学 | comments(0) | trackbacks(0) |
うまれたよ、ペットントン
 友だちが小犬を飼うようになった。
 タクヤは、ペットが欲しい。
 ペットショップで、弟が大きくなったらペットを飼うと言いながらいろいろな動物を見ていたら、大きなタマゴを引き取ってもらいにやってきたおばあさんに出会う。
 そして、手に入れた、大きな大きなタマゴ。

 その、タマゴから生まれたものは・・・!!

 ここまでは予想通りの展開。そして、その後、「その子」の親が現れて、その子を連れて行く下りも、そして、そんな展開の中で、ちょと邪魔っ気だった弟を大切なものと認識するあたりも、ある種、よくある物語だと言えるだろう。

 しかし、この物語の爽快なところは、そんな、どこかで読んだ物語に身をゆだねているうちに、「ペット」という言葉がするりと抜け落ち「家族」に変換されるところ。
 タクヤが欲しかったのは、ペットではなく、自分の愛情を一身に与えられる何かだったんだなぁと思う。
 このあたりの理屈を、ひょいと越える感じが憎らしい。

 村上康成の絵も魅力的な絵物語である。


              うまれたよ、ペットントン
         書籍データ 岩崎書店 服部千春 作 村上康成 絵 201308
| 21:07 | 児童文学 | comments(0) | trackbacks(0) |
アサギをよぶ声
 何かの文様のような表紙絵、朱の色、光と影がこの作品世界の全てをあらわしている。 

 母は、呪いの様に、
「おまえが男だったらよかった」
と、アサギに言う。父は、戦士だったらしい。
 男なら戦士になれる。そうすれば、多くの分配が、アサギの家にも割り当てられるのだ。

 アサギの村では、十二歳になると、女の子は女屋に、男の子は男屋にはいる。女は、結婚のための準備、男たちは、村を守る戦士に選ばれるための修行に励むため、共同生活を始める。
 
 強い思いがあったわけではない。アサギは、何かに呼ばれるように、母の言葉に追いたてられるように、女でありながら、戦士になる夢を抱き始める。
 アサギは、村の掟を破り、村人からの尊敬を一身に受けるハヤという戦士から教えを受ける。
 なぜ、ハヤはアサギを選んだのか?
 父の死の真相は?

 アサギは、戦士になれるのか?

 村の掟という変えがたいものの中で、人々は生きている。
 ある時は、それに救われ、ある時は、それを言い訳にして。掟あればこそ、村はながらえ、掟ゆえにそれに副わぬものは善意や優しさとて葬られる。
 ハヤは、その有難さも、理不尽さもすべて包容した戦士である。

 この物語は、天から選ばれた才能を持つ少女が、村の掟を変える話ではない。
 しかし、その封建的な世界で、自分の才能を見せつけることを果たし、尊敬するハヤに仲間として認められる物語ではあるのだ。
 
 アサギは、才能を見せ付けることで、その組織の中で罰せられた父の罪を浄化し、再び母と共に市民権を手に入れる。
 そのことは、アサギが、女屋に入ることを許され、誰かの妻になることを認められた瞬間でもあった。

 戦士としての才能が、妻になるという女性の幸せを呼び寄せる不思議の中で、懸命に自分らしく生きたアサギに、物語は、どちらの幸福感にも浸らすことはしない。

 なれないということは、そこにもどることか?

 ハヤの言葉に胸が熱くなる。

 しかし、女性という生き物は、自分に誠実であろうとすればするほど両義的存在だ。
 アサギは、今、その両義性を、自己の中でも、村の中にも手に入れたのだ。

 アサギはどこに行くのだろう?
 同じ女性として、そう考えずにはいられない。
 多くの迷いを、選択できる自由と不自由の苦しみを、アサギは背負い込んだことになるからだ。
 しかし、ハヤに認められたという、一つの神話的自信が、アサギを支え助けてくれることは間違いないでのはないか。
 アサギが迎えた夜明けを、自分の明日に重ねつつ、ふと、何かが出来そうな気持ちになる物語である。

  
                      アサギをよぶ声
       書籍データ 偕成社 森川成美 作 スカイエマ 絵 201306
| 20:56 | 児童文学 | comments(0) | trackbacks(0) |
もののけ温泉 滝の湯へいらっしゃい
 両親の都合で一人で父方の祖母の家にやってきた小学4年生のかえで。
 祖母が営むとらやは、古びた小さな温泉旅館。その離れに一人、最初のうちは、のびのびと大人のいない生活を満喫していたかえでだが、だんだん自由に退屈するようになる。
 ある日、父が自慢していた共同浴場「滝の湯」にふらりとでかけたかえでは、休憩中とはかいてあったものの、お湯の音に誰かがいると思い、中に入る。

 休憩中の入浴をきっかけに、18:00〜18:40の休憩時間だけ番台に立つことになったかえで。
  滝の湯のおばあさんは、お客さんの顔を見てもいけないし、話しかけてもいけないという。

 とらやの看板ネコ、とらの失踪と、滝の湯の関係。
 そして、滝の湯のおばあさんの正体とは?

 どこにでもある田舎の風景。
 観光客で賑わう風情の、一本裏道、いやいや、休憩時間に、脈々と息づく地元の人々の暮らし。その暮らしの中には、ちょっとした不思議の扉が開いているものなのかもしれない。
 
 労働と、入浴のとらえ方が読んでいて心地よかった。
 働いて身体を動かすからこそ、湯は苦労を労い意味を持つ。
 そして、一見、働いてなさそうなものが働いて体を成しているのがこの世の中というものだ。

 かえでは、お客さま的存在でごろごろしていた自分を放棄し、とらやで祖母の手伝いをはじめる。簡単なことからだけど、祖母は喜んでくれ、自分自身充実している。

 特別な夏休みは、田舎の日常に溶け込むことからはじまる。

 溶け込むと、特別。
 この対極にあるように思える言葉が実は地続きなのだと感じさせてくれる物語。

           もののけ温泉 滝の湯へいらっしゃい (おはなしガーデン40)
            書籍データ 岩崎書店 佐々木ひとみ 作 jyajya 絵 201310
| 23:44 | 児童文学 | comments(2) | trackbacks(0) |