一流企業でキャリア街道まっしぐらの母。
そして、めだたない凡々たる自分に気付きはじめたぼくが、突然、民芸品に宿る精霊と話せるようになってしまう。
父の大らかな羨望の目、そして、無邪気に父が喜ぶと言う理由で、世界中から怪しげな民芸品を買ってくる母。そんな母に何かが憑りつき、母を助けるために、ぼくは、ちょっと面倒な、自分の新しい能力と向き合い始める。
物語は、ドタバタ楽しく進行するが、幼馴染のきらりが、ぼくの一家と付き合う中で、無理をやめて自由に生きようと思う薄い決意と、精霊たちが住みやすいと思う理由は同じかもしれない。
社会・経済・自分らしさ、能力、そして精霊たちの世界。脱力系の家族、登場人物たちが、お互いを思い、感化される合う時、そこには、普通で、自由な、理想的な生き方が、気負いなく描かれている面白さがある。
宮下恵茉 十々夜 PHP研究所 2020
]]>あつおの父は、「デコやしき」と呼ばれる伝統工芸館で、デコ人形を作る工芸士だ。春の時期、観光客の需要が多く、泊まり込みでの作業が多くなる。妹が出来たばかりで思うように動けない母を、助けてあげないといけないことばかりで、あつおは少しイライラとするのだが。
母に、父へのお弁当を託され、「デコやしき」に向かうあつお。
一面桃色の春の陽気の中で、あつおの鬱憤はやり場なく膨らんでいく。
そして到着した「デコやしき」で、あつおが出会ったものは・・・。
この物語が心に残るのは、あつおが出会った異世界は、けして行って戻る所ではなく、また、あつおが何かに罰せらることも許されることもないからだろう。
「おてんとさまがみている」
という言葉が表すように、あつおの行いは、日常の中にあり、そのため、妖気に近付かれ、そのために妖気を遠ざける。
母に命じられることをやってあげるところも、それを疎ましく思うところも、妖気を恐れるところも、そして、父へのお弁当に何としてでも守ろうとするところも、あつおは、けして特別ではない、みんなの心と同じ優しさと弱さ、強さを持つ子どもなのである。
あつおは、自分に起こったことを乗り越えた自信で、自分のすることに意味をみつけ、そしてしたことを詫びる強さを得る。
一面桃色の画面は、おてんとさまの存在と、その中で起こる、個別の心情の動きが見事に描かれている。
あつおの表情が、子どもらしい不満から、内省的な怒り、そして不安、父と対面した時の子どもの顏、そしてお兄ちゃんの顏と目まぐるしく変わっていく。再び、自分の気持ちと対面し、「ごめんな!」が言えた安心感。
大人の読者である私にも、あぁ、よかったと思えるのは、あつおの成長物語として読めるだけではないからなのだろう。あつおが出会った異世界は、子どもだから出会えたものではなく、ずっと、そこにある。大人になっても失っていない異世界への扉、存在に対する喜びと、ほんの少し後ろめたく日常の行いを振り返る怖さなのかもしれない。
一番好きなのは、お弁当を届けた時の父の表情だ。
障子を開けた「とうさん」は、部屋の光を背中に浴びて、働く人の顔をしている。
あつおを肩に抱きあげた時の父の顔とは、全く別人だ。
自分に向けられる、父親としての顔ではない、全く違う役割を担った父の顔を見ることは、子どもにとって特別なことだろう。
簡単に言葉ではできない、そんな瞬間に出会いながら、人は世の中のふくらみを感じ取っていくのではないかと思う。
そのふくらみの中にこそ、豊かさや、思いやる気持ち、そしてこの世界に生きる自分の存在がある。
この絵本には、言葉にしたとたん陳腐になってしまうこの世の不思議と豊饒さを幾重にも感じ、何度も読み返したくなる。
書籍データ 八百板洋子 文 垂石眞子 絵 福音館書店 202003
]]>ただ、その子どもは、水が無ければ生きられない赤い魚だった。
星の香りがすることにおとうさんグマは感激し、夫婦は、我が子に「ヒレヒレ」と名付ける。
遠巻きにざわめく、森の生き物たち。クマとは違いすぎる子どもの姿に、違和感と不安の言葉を口にする。
そんな中で、夫婦に背を向ける森の識者・フクロウ。
クマの夫婦は、自分たちを選んでくれた、ヒレヒレのために、水辺の家に引っ越しをする。そして、ヒレヒレと一緒に泳ぐのだ・そこに森のみんなもやってきて、クマの家族と泳ぎ楽しむ。そこにはそっと佇むフクロウの姿もある。
子どもがやってきたことで、クマの夫婦が変わる。森のみんなも変わっていく。ざわめきの善悪、良し悪しはけして語られることなく、それぞれはそれぞれとして、それでも、ヒレヒレに寄り添っていく。
新しい命が生まれるということは、単純に言えば、そういうことではなかろうか。
誰かの生活を、その距離感で変えていく。そのことが、きっと考え方や価値観をも変えていくのだろう。
そのことを当たり前のこととして受け止め、新しい命を喜ぶクマの夫婦の姿の気負いなさが、親というものの強さだと胸に響く。
この本は、AHDS(アラン・ハーンドン・ダドリー症候群)という、先天性の脳の難病をかかえた子どもと、その両親がモデルになった絵本だとあかされている。
本の読み方を強要されるようなエピソードは不要だと常は思う私だが、この本については、理屈ではないところで腑に落ちていたからか、そういうものを含んでいるかもしれないと不思議な感動を覚えた。
「スーパーキッズ」(講談社 2011)では、子どもたちの選ばれし才能について、もらったものを花開かせると大らかに歌い上げた佐藤まどかの、生命というものの捉え方が、翻訳というフィルターとして成功しているのかもしれない。
この絵本に溢れる幸福感は、数々のざわめきは排除されることなく残されながらも、一番近くにいるクマの夫婦が、愛に溢れ、安定しているからだろう。多様性とは共生とは、生活の場の中で、当たり前のことが気負いなく守られていくことに違いない。だから、題名が、クマのあかちゃんではなく、森のあかちゃんなのだなぁと、水と光のやさしさに、幸福感が溢れている。
書籍データ コゼッタ・ザノッティ 文 ルチア・スクデーリ」絵
佐藤まどか 訳 BL出版 201906
]]>いずれも、本年の同時期に発行されており、SNS投稿が話題になり書籍化というルートも似ている。
四コマ漫画ということもできるし、ワンカットの風刺画的漫画とも言うことができる。「社畜」と呼ばれるサラリーマンを鶏やペンギンとして描くことで、笑い飛ばせたり、哀愁を客観視できる魅せ方も似ている。
「会社員でぶどり」を新聞記事の紹介で知り面白そうだと手に取ったのだが、正直、会社がブラック過ぎて私には彼らの悩みは共感はできても身につまされるものではなかった。その論点でいくと「テイコウペンギン」は、社内の人間関係がクローズアップされており、ブラックな会社はその背景であり、自分の日常に引き寄せて笑ったり、言い当てているなとほくそ笑んだりすることが多かった。私の中では「テイコウペンギン」に軍配があがるわけだか、これは、作品の出来というよりは、私の企業人としての、日常の悩みとよりリンクしたというだけのことなのだと思う。
「会社員でぶどり」は、企業という大きな濁流のなかでうごめく歯車たちの悲哀が、「テイコウペンギン」は、企業という籠のなかでうごめく人間模様の妙とすれすれの本音が描かれている。
自分の立ち位置を確認するためにも、是非両方読んでみて下さいと言いたくなる二冊である。
「会社員でぶどり」 産業編集センター 201903 橋本ナオキ
「テイコウペンギン」 講談社 201903 とりのささみ。
]]>書店で人気の作品を尋ねると、「ふわふわくもパン」(小学館にて翻訳されている)をすすめてくれたのだ。アニメーションのように動きのある立体的な絵に魅かれ、買って帰った。次の旅行でも、違う書店で同書をすすめられ、長い人気作品なのだと感じ入ったことを覚えている。
「ふわふわくもパン」の翻訳本にふれたのが、2006年。そこから10年の歳月を経て、長谷川義史という人気作家の軽妙な語り口とともに、「天女銭湯」(2016年)「天女かあさん」(2017年)に出会うことになる。相変わらずの迫力と、印象的な表情に心は動くわけだが、関西弁がピッタリしすぎているからか、絵がややグロテスクさを帯びているからか、今一つ、特別な一冊と呼ぶには至らない私と本との距離感に戸惑う思いだった。
そして、本書「あめだま」である。
どこかグロテスクで誇張した人間像と、関西弁のうるささに、ごちゃごちゃどんどん埋もれているうちに、その息苦しさから、ふっと開ける静けさに、解放感と世界の美しさを感じる。
ひとりで遊ぶことが好きだと豪語する少年が、心の声が聞こえる魔法のあめだまを手に入れ、身近な人や、一緒にいる犬の声を聞き、自分の世界を手に入れる。最初の静けさと、最後の静けさの違いが、見事に演出され秀逸である。
10年を超える時を経て、再度、私は、ペク・ヒナの世界に恋をしている。
書籍データ ペク・ヒナ 作 長谷川義史 訳 ブロンズ新社 201808
]]>周りのねこたちの名前を反芻しながら、自分が呼ばれている名称は、自分のことを指していても、名前でないと強く思う。
匿名性の強い呼び名が、自分を傷つけている事実さえ、名前のないねこには受け入れることしかできない。
なぜなら、自分には、名前がないから。
「なまえのないねこ」の放浪は、ある雨の日に終わりをつげる。
少女がねこの目をのぞき込むのだ。
「きみ、綺麗な メロンいろの めを しているね」
それ以上の言葉が、あるだろうか。
ねこの思いに付き合ってきた読者にとって、予測できる結末はこの上ない喜びでもあるが、それ以上の、ねこのストレートで強い思いに心打たれる。
・・・そうか、そのことも、気付いていなかったんだね。
放浪、匿名性、思慮深い瞳。
ねこという生き物自体のイメージが物語を真っ直ぐに読者の心に伝えてくる。
読んだ後に、胸に残るのは、心の中にある、「なまえのないねこ」・・・いやいやこれは、あるねこの物語。
町田尚子の描く、ねこの視線が、胸から離れない。
最後の絵の、ねこの後ろ姿は、とても幸せそうで、にもかかわらず、飼い主などという安っぽい関係を思い浮かべもさせない、きりりとした自己主張がある。
名前とはなんなのか。意味、目的、そして存在。
読み終った後、自分と、自分の名を呼んでくれるすべての存在が愛おしくなる物語。
書籍データ 竹下文子 文 町田尚子 絵 小峰書店 201904
]]>抄訳などという言葉を使いたがる子どもは、「赤毛のアン」という匂いに魅かれるはずもなく、私が「赤毛のアン」シリーズを手にしたのは高校生の時。ずいぶん遅いデビューであった。
面白いものだと感じたのが素直な感想ではあるが、面白がる自分が恥ずかしく、肯定的な感想をいうことがはばかられた。
ベラベラと自分の内面をぶちまけ、コンプレックスを持っているとわめきながら、保護者に愛され、無条件に自分を受け入れてくれる同年代が近くにいる夢見がちな少女の存在は、どこか疎ましかった。
この本の編訳を担当した、宮下恵茉さんは、小学校で「赤毛のアン」に出会い、夢中になったのだと、あとがきにある。
面白いほど、私と、正反対の反応。
そして、読書の面白さというものは、
ひねくれて距離をとった本とも、振り返れば良き思い出があり、
その同じ本に魅かれたという人物が紡ぐ物語に、ひねくれ者がひどく魅かれたりすることかもしれない。
作家・宮下恵茉への信頼と興味がなければ、私は今更、抄訳などいうものを手に取らなかったかもしれないし、読むこともなかっただろう。
良くできた、抄訳である。名場面と要所は逃さず、しかも読みやすく、面白くである。
アンが、マシューとマリラの日常を、外部者の目で夢のような言葉で飾ることから始まる冒頭から、居場所を求め続け、この地に根を下ろし「夢のかたちがほんのちょっとかわった」と神の目を感じるラストまで一気に読者を運んでいく。
ダイアナもギルバートも生き生きとしていて、アボンリー、グリーン・ゲイブルズといった言葉の響きに感じる不思議な憧憬も良く描かれている。
大人になって抄訳を読むのも悪くない。
自分とその本の距離、そして抄訳をした作家への興味。
久々に、「赤毛のアン」が読みたくなった。
この本を手に取った子どもたちは、「赤毛のアン」とどう出会い、どう付き合って大人になっていくのか。
そして、振り返れば、すべて良き思い出。
それが、名作と呼ばれる本の底力なのかもしれない。
書籍データ L・M・モンゴメリ 作 宮下恵茉 編訳 KADOKAWA 201801
]]>ペットと間違われ、入店拒否をされるくだりがあるが、悪意のない勘違いや戸惑いが、苦労を抱える人にとって一番の敵なのかもしれないとさえ思う。
この本は、そんな聴導犬のこんちゃんと、耳が聞こえなくなってしまった仁美さんの二人三脚の生活の物語だ。
こんちゃんが聴導犬になるまでの道のりと、日本聴導犬協会の役割が丁寧に描かれる。また、くりくりおめめの可愛い写真と、どこかおどけたような一人称の語りは、こんちゃんのまっすぐで人懐っこい性格を手触りのように感じることができる。介助を受けるはずの仁美さんも、介助犬と出会うために、共に生活するためにこんなに訓練と努力をしている事実を、小さな子どもでも、軽妙なタッチで知ることができるように描かれている。
「こんちゃん」は、可愛い名前だという感想は誰でも持つのだろうと思うが、耳の聞こえない人でも発音しやすい名前なのだそうだ。そんなたわいない知識の積み重ねこそが、真の理解への近道なのだとも思う。
聴導犬には見えないこんちゃんと、耳が聞こえない障害を持っているとは外見からは想像もできない仁美さん。
一番素敵だなと思うのは、こんちゃんは聴導犬に適した資質を持った犬だが、けして、パーフェクトで特別なエリート犬ではないというところだ。あごの骨が弱く、何度かの手術を乗り越えて、聴導犬に成長していく。資質を最大限に活かし、認められ、困難を乗り越える時間を誰かに待っていてもらうというのはなんて幸せなことだろうとこんちゃんの姿を見て思う。
小さな知識と、小さな幸せを積み重ね、人生には光がさす。そんなことを考えさせてくれる本。
子どもたちはもちろん、大人にも是非手に取ってもらいたい作品である。
書籍データ ?橋うらら 作 岩崎書店 201810
]]>とうさんは、ポロの心のデータを開発中のネコ型ロボットに移しよみがえらせることができると言った。
よみがえったネコと、ぼくが、リアルネコ時代の、思い込みと思い入れを乗り越え、ロボットネコと再び友情を育てる物語。
永遠の命を得ることは本当にいいことなのか? いやいや、命は限りあるからこそいいなんて、愛するものを目の前に言えるセリフなのか? 読者の心は何度も揺らされながら、もう一度出会えた幸せの先の、やっぱり再び来るであろう別れを予感する。
そして、動物と人間の、お互いに感じていたことが、はっきりと言葉になった時、そのシーンが全く違うニュアンスであったこと突きつけられる。はっきり知らなくたって、ふんわり慮っていた方がうまくいくことってあるじゃない? すべて理解し伝え合うことは本当にいい事なのか?
ロボットになったって、それは心に着るものがかわっただけで、変わらないってことではないの?
コミュニケーション能力をみにつけましょう。大切なのは心です。スローガンのように唱えられる、教育上獲得が求められる到達点に、作者は、ことごとく疑問を投げかける。
それでも、うまくいかないのが、人と向き合うってことじゃないの?
心が同じなら何も変わらないのか? すべて言葉にできることはいい事なのか? 死なないことをどう受け止めればいいのか? これらの問いに明確な答えはない。
ひとつだけ確かなことがあるとすれば、ポロはぼくが、ぼくはポロが大好きだってことだけだ。
この本は、文明批判でも、そうなればいいなというファンタジーでもない。
愛するネコとぼくの漂泊の物語だ。
二人(ひとりと一匹?)は、傷つき、考え、そして、オリジナルの解決法を見つけようと必死にあがく。
それは、ロボットとしての体の改善が可能であるという希望を持った、人間の言葉を話そうと、不死身であろうと、けっして自分の存在を否定することのない立場からの、友情の発見なのである。
書籍データ 佐藤まどか 作 木村いこ 絵 講談社 201801
]]>地続きに異界がある楽しみと、知的なブラックユーモアと、得体のしれない情念と一体化した塊と、それが生活の中にある土着的な怖さ。あぁ、それが妖怪を生み、見せるのだと、自分の中にある緩みや凝りが炙りだされる。
東北に居を構える3人の作家の連作短編。「みちのく妖怪ツアー」に参加した、少年少女たちの物語。彼らは、妖怪に出会い、その世界へ飲み込まれていく。
連作短編なのだが、表題には作者は記されない。文末で、作者を知ることになるわけだが、これがなかなかピタリと当たる。怪談話は形骸化された中に放り込んでこその怖さだとも思うのだが、そこに作家の個性をしっかり魅せるとは、只者ではないアンソロジーである。
時事問題やニュースもも盛り込みながら、妖怪は、古き良き想像力ではなく、今、生きている人間の足元にうごめくものだということを描いている。そして、最後の話は、ちょっぴり今どきのファンタジーテイスト。そう、そういうファンタジーを好む読者が、「早く見つかってほしい」という言葉に共感しているその瞬間も、ほっとしていいのか、それとも、全く片付いていない、見つからなかった子どもたちの気配に怯えるしかないのか。なかなかどうしての素晴らしい構成である。
書籍データ 佐々木ひとみ・野泉マヤ・堀米薫 作 東京モノノケ 絵
新日本出版社 201808
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私にとって、首藤康之は、東京バレエ団のベジャールダンサーというイメージのまま止まってしまっていた。
ところが最近、TBSドラマ 99.9−刑事専門弁護士− で松本潤演じる深山の亡くなった父親というフラッシュバック気味のある種幾何学模様のような存在で見かけ、直感で見に行った舞台、長塚圭史作・演出【かがみのかなたはたなかのなかに】でも拝見することになり・・・ふと、首藤康之のその後に興味を持った。
小学校五年生で単身ニューヨークに渡ったという、ミュージカルが好きで、舞台が好きで仕方なかった首藤少年の、恵まれているという言葉では表現しきれない一途で純粋な人生を知ることができる本だ。
ダンサーへのインタビューは面白いものだと思う。
彼らは、音楽を独特の経験として語る。それは、普遍的でありながら、ダンサーとしての体験であり、感性でも理屈でもない不思議な言葉が紡ぎだされる。
書籍データ ダンスマガジン 編 新書館 201201
]]>全幕オリジナルの作品として、2017年10月に上演された「クレオパトラ」の舞台を収録。全2幕5場
舞台を映像で見るのは、どこか苦手だ。視線が固定されるということはこんなに窮屈なものなのだろうかとベストロケーションであるはずの映像を見ながら思う。
今回特に窮屈さを感じたのは、画面から飛び出んばかりのアップ画像が多く、もう少し引いてバレエを楽しませてくれという思いが沸いてきたからだ。
しかし、おかげで、Kバレエカンパニーのダンサーの顔は覚えられたということになるのかもしれないし、映画で観る層というマーケットを考えれば、ライブの舞台とは異なる見方をするということも含め、迫力を重視した映画的手法ともいえる映像は、ありなのかもしれないと思う。舞台と映画、補完か、はたまた別物と評価すべきか、役割という言葉が、頭にちらついてどうもうまく気持ちがまとまらない。
中村祥子(クレオパトラ) 山本雅也(プトレマイオス)スチュアート・キャシディ(カエサル) 宮尾俊太郎(アントニウス)といった出演者。本公演では、複数のキャストであったはずだから、これがベストキャストなのだろう。
時代背景のテロップが文字として流れる。そのことが、人に物語を求めさせすぎるのかもしれないと思う。だからこそ、未消化な部分が気持ちに残る。もしかしたら、普通に、バレエとして見たのであれば、それはそれで良いのかもしれないのにも関わらずだ。
どうも歯切れが悪くなるのは、自分の中で、このもやもやした気持ちの原因が突き止められないからかもしれない。
私が確信を持って言えることは、舞台セットの美しさ、衣裳のきらびやかさ、そしてラスト5分の音楽と人々の動き、感情の在り様、それだけで、この舞台は価値があるということだ。
では、きっちり着地させてくれたはずの舞台の何が不満なのだと聞かれたら、私には、クレオパトラの魅力が腑に落ちなかったのだというしかない。私は、誘惑する女、愛を迷う女という主題はとても好きだ。だからこそと続ければいいのか、にもかかわらずと続ければいいのか接続詞に迷うが、迷いや孤独を感じるには至らず、権力にものをいわせたセクハラか、自堕落な権力者同士の逢瀬にしか思えなかった。歴史の荒波の中にうごめいた人の心の闇と光、女性の抗えない業が、美にまで昇華していないのだと思う。
性を暗喩させる踊りのバリエーションは豊かでなかなか面白いし、山本雅也演じるプトレマイオスは良かった。どうしょうもないくらい男の子で、あれではクレオパトラが男に走りたくなるのがわかるし、殺されてしまう説得力を持っていた。
黄金の傾斜の前にクレオパトラが座り込む場面、大きな階段の使い方は、憎らしいくらい美しく、一服の絵のようだった。
構図としては、時の流れの大きさと世界観、そして一人の女の孤独は描かれているのだと思う。
そして、そこから、怒涛のラスト5分に流れ込む演出だ。
ライブの舞台で見たら感想は変わるだろうか。なんだか、見たいような。いやいや、きっとこれは、クレオパトラが、圧巻の美しさと妖艶さで、悲しくも美しい恋と野望と、そして孤独を、身につまされるような説得力で演じてくれない限り、どこまでいっても私には響かないだろう。
人の評価を信じ切るつもりはないが、クレオパトラを演じたのは評判の良いダンサーのようだ。今、これが限界なのだとしたら、これは、これで終わって良いような複雑な気持ちである。
201801 日本 芸術監督・熊川哲也
]]>子どものように無邪気で好奇心にあふれた池坊専好は、信長の心を奪い、秀吉に生かしておきたいと思わせ、利休からも特別な人として目された人物。
「花戦さ」という題は逸品だし、スクリーンの大画面で、素晴らしき「生け花」を魅せる趣向は新しく素晴らしかった。
役者も、野村萬斎(池坊専好) 市川猿之助(秀吉) 佐々木蔵之介(前田利家) 佐藤浩市(利休)と申し分ない。
誰もが好きな時代を、期待を煽る布陣が演じるのだ。面白くないはずがないと言いたいところなのだが、そうもいかないというのが現実というものらしい。
秀吉と利休の確執、秀吉と確執のあった絵師の落としだねでもあり、野性的な天才少女・れんの絵と存在に、専好が感じたものはいったいなんだったのか、それぞれの人物像は見事にくっきりとしているにも関わらず、関係性がまったく迫ってこず、結局誰にも感情移入できなかった。
それに、最後、専好が秀吉に仕掛けた一世一代の「花戦さ」。べらべら主題と現状をしゃべっちゃうあの感じは、最近のドラマや映画の傾向として、やっぱり好きになれない部分である。
あえていうなら、その声が、佐々木蔵之介の落ち着いた声だったことが唯一の救いというところだろうか。
東映 2017年6月 監督 篠原哲雄
]]>色彩豊かな宮沢賢治の文章に、降矢ななが言葉に負けない美しい絵で応え、世界を広げている。
黄金のような黄いろのトマトとサーカスの群像、夢心地の物語が一転、日常に汚される瞬間が見事に描かれている。
書籍データ 宮沢賢治 作 降矢なな 絵 三起商行 2013
]]>シェイクスピアが活躍したルネサンス期のイギリス演劇にならって、全ての役柄を男性が演じる。女を男優が演じ、劇中で、その女が男を演じるという倒錯的な趣向を面白く見た。
ヴェニスで高利貸しを営むシャイロックを市川猿之助が演じている訳だが、上演当時猿之助は37歳。その年齢で、この深みを出されてしまっては、年齢を重ねて人生経験で演じるなんていう言葉が虚しくさえ思える。
現在の価値観では、喜劇として描かれたこの物語が、一人の老人の悲劇であることは社会通念として常識化しているわけだが、猿之助は、情に訴えることなく抑制のきいた演技で悲喜劇併せ持った人間の苦悩を苦悩として描いている。その抑制に文学が香り立つあたりがなんとも憎らしい。
演出 蜷川幸雄 2013年 埼玉・彩の国さいたま芸術劇場大ホール
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