ぜひぜひ読んでほしい本のショートreviewをUPします!
<< September 2018 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| | - | - | - |
マクベス
 兵庫県立芸術文化センターにて、兵庫県立ピッコロ劇団第51回公演「マクベス」を観劇。
  
「人生は歩き回る影法師、あわれな役者だ、舞台の上でおおげさにみえをきっても出場が終われば消えてしまう。
白痴のしゃべる物語だ、わめき立てる響きと怒りはすさまじいが、意味はなに一つありはしない。」の名台詞で有名な、シェークスピアの四大悲劇の一つに数えられる「マクベス」である。
 手元にあった、小田島雄志・訳のもので名台詞を紹介した。
 本公演は、喜志哲雄が訳しており、名台詞は以下のように語られる。
「人生は歩く影にすぎない、哀れな役者で出番の間だけ舞台で大騒ぎ、終われば余韻も聞かれぬ。それは白痴が語る物語、大仰に声を挙げるが何の意味もありはしない」
 もちろん、文字としてこう書けば、好みの分かれるところであろうとも思う。
 しかし、面白いのは、このマクベスは、軍服を着たマクベスなのである。
 実際のマクベスが生きた1040年頃のスコットランドではなく、どこか世紀末の退廃的な匂いのある、とある国の物語とでも言ったらいいのだろうか。
 魔女たちの不思議な台詞、マクベス、そしてマクベス夫人の、比喩と妄想を多分に含んだ長い独白。そして、それを、近代に焼直すという作業。それは、舞台という限られた面積の中では、図式化を余儀なくされる。
 奥行きがあり、少し歪んだ世界を彷彿とさせる舞台セットと、聖と俗を交互に演出するような音楽。その中で、図式化された言葉が行き交う。
 しかし、見る者の心に、より切迫感を持って届けようと近代に焼直したはずの物語が、きれいに図式化されすぎて、知性にだけ訴え、心情に訴えないというのでは元も子もない。
 その図式化を崩すのが、この、どこか、不完全な匂いのする、わかりやすい口語体のセリフの在り方ではなかったか。
 そして、もう一つ、ダンカン役の浜畑賢吉の存在である。
 冒頭、マクベスの戦功を称え、領土を与える場面で、ダンカンは、場内を見渡し、客席に視線を投げる。たったそれだけの仕草で、観客が、見る者から、経験する者へと変換された現場を目撃し、私はどきりとした。自分のことと切り離すことで得ていた、客観的知性の壁を壊す瞬間である。
 役者というのはすごいものだと思う。
 図式化される心地よさと、図式化されまいとするもののせめぎあいは、そのまま、マクベスの、日常と、非日常、野心と狂気の対立に通じ、面白い知的二律背反の楽しみを享受させてもらった。



                  
| 22:26 | 舞台 | comments(0) | trackbacks(0) |
DREAMGIRLS
 ブロードウェイ・ミュージカル「ドリーム・ガールズ」を見た。
 ダイアナ・ロスとスプリームスをモデルに描かれたといわれている、ミュージカルで、1982年にトニー賞を受賞。2007年には、ビヨンセ・ノウルズ主演で映画としても大ヒットした。

 三人の少女が、スターになることを夢見てオーディションを受ける。
 ショービジネスという綺麗ごとでは渡れない世界。
 彼女たちは、音楽界転身の野心を持つカーディーラー・カーティスに導かれスターの階段を登り始める。三人の少女のリーダー格だった卓越した歌唱力の持ち主・エディは、パワフルに自分の思い通りの道を切り拓いて行くカーティスと恋に落ちる。
 しかし、カーティスの目にうつっているのは、美貌のディーナだった。
 彼は、野心と恋を重ね、ディーナをリードボーカルにし、白人にも聞き心地の良い、新しい「売れる」ソウル音楽を売り出していく。そんな中、パフォーマーとしても女性としても傷を負ったエディは、あがき苦しみ、恨み、バランスを崩して、カーティスと、カーティスの意見に同意した仲間たちから、華やかな光の中から去ることを宣告されるのだ。
 恋も仕事も同時に失ったからこそ、一人、歩き出さなければならなかったエディ。
 恋も仕事も同時に得たにも関わらず、スターという不特定多数の欲望の奴隷にならざるを得なかったディーナ。
 強く願うことは、常に、自分を傷つける。
 しかし、前にすすむことを諦められなかったのは、歌と人生が表裏一体であったからだろう。
 その迷いの無さを、才能と呼ぶのであれば、それはあまりに過酷な贈りものだ。

 私は、この物語が好きだ。
 恋と仕事の近さ。才能と人生の近さ。友情、血の繋がりと、歌と仕事の近さ。
 どれにも逃げられない救いのない近さを抱えながら、彼女たちは歌う。
 そのパワーと、哀しさと、生命力が好きなんだと思う。
 すべてを失うかもしれないリスクを孕んだ優越を才能と呼ぶのだ。
 
 "One Night Only"  を聴いていると涙が溢れる。
 エディのソウルフルなバージョンにも、ディーナのディスコサウンドバージョンにも、人生がある。
 
 舞台は、声が直接何かを鷲掴み揺さぶってくる。
 なんだか、二時間ずっと泣いていた気がする。


 
         

         

   カーテンコール中は、写真OKとのテロップ。
  ちょっとびっくりしながらも、激写。素敵な演出に感謝。
| 21:08 | 舞台 | comments(0) | trackbacks(0) |
松竹大歌舞伎
 近くの文化プラザで、歌舞伎の巡業公演があったので見に行ってきた。
 花道もない舞台に、中村吉右衛門とは・・・と、思いつつ、巡業ならでは時間配分と客層(具体的には、子どもが多く、遅れてくる人がかなり多い)に戸惑いながらの鑑賞になった。

 中村歌昇改め 三代目 中村又五郎襲名披露
 中村種太郎改め 四代目 中村歌昇襲名披露
 の口上もあり、華やかな巡業である。

 演目は番町皿屋敷と、連獅子

 ☆
番町皿屋敷
 赤坂山王神社、旗本で白柄組の青山播磨が、敵対する町奴の幡随長兵衛の子分から喧嘩を売られ、一触即発のところを伯母に諌められる。伯母は、血気盛ん過ぎる播磨を心配し、そろそろ落ち着くべきだと、縁談を勧めるのだった。
 しかし、播磨は腰元お菊と恋仲の関係で、その気はない。
 他方、播磨の屋敷では、縁談の噂話を聞いて不安になったお菊が、播磨の本心を確かめようと、家宝の皿を割る。
 なんで、そんなことになるのかなぁという展開だが、そこは、恋という魔物というところか。無軌道な行為に、吉右衛門の清々しい若者らしさを備えた演技が不思議な納得感を感じさせる。
 最初はお菊を許す播磨だっが、お菊が故意に皿を割ったことを知り、自分の心を試されたことが許せず、手討ちする。

 皿屋敷伝説を踏まえながらも、近代の恋愛物語として新たに作られた岡本綺堂の新歌舞伎とのこと。試された男が、メンツ、プライド、複雑な怒りの中で、恋人を殺し、恋を失うまでの物語。有名な、皿を数える幽霊とは無縁・・・夏らしい怪談だと思い込んでいたので、少し残念。
 知らぬとは恐ろしいもの。

☆連獅子
 文殊菩薩の浄土と言われる唐の清涼山に架かる石橋にやって来たのは、狂言師の右近と左近の親子。手獅子を携えたふたりは、親獅子が仔獅子を千尋の谷に突き落とし、這い上がってきた子だけを育てるという故事を踊る。
 その後、ふたりの旅僧が現れ、互いの宗派が違うことがわかると宗論を始める。やがて、親子の獅子の精が現れ、獅子の狂いを勇壮に舞い納める。
 この獅子の毛振りが見どころの長唄舞踊を、この度襲名を果たした親子が、実生活さながらの迫力で演じていた。


                                    

| 19:03 | 舞台 | comments(0) | trackbacks(0) |
五月花形歌舞伎
  今月、二度目の昼の部、四度目の南座である。
 前回は初日を拝見したのだが、明日が千秋楽という本日の芝居は、感情表現豊かでスムーズに時が流れ、同じ舞台でありながら、違う楽しみを満喫させていただいた。

 (参考 →  
http://yukareview.jugem.jp/?eid=552 )

 どうしても、前回は、久々の海老蔵詣とあって、海老蔵出演の「歌舞伎十八番の内 鎌髭」にばかり心が急いだわけだが、今回はゆっくり他の演目も楽しませていただいた。
 天狗たちの踊りが恐ろしくも楽しい「新歌舞伎十八番の内 高時」。感情的で、プライド高き高時を、右近が魅力的に演じる。 「太刀盗人」は、くり返しと、松也演じる、すっぱの九郎兵衛のコミカルな動きと表情が面白くわかりやすい狂言。
 そして、やっぱり「歌舞伎十八番の内 鎌髭」 前回感じた、色彩豊かで様式美を重視した舞台への感動は二度目を理由に色あせることはなかった。
 今回、酒が強く、刃物にもびくともしないという男へのわかりやすいヒロイズムがなんとも心地よく感じた。そして、狂言中の口上。この演目を父と共に演じたかったという海老蔵の言葉が、形式美を重視するが故の抑制の中で哀しく響き感動的だった。

        



| 19:18 | 舞台 | comments(0) | trackbacks(0) |
五月花形歌舞伎
  五月二度目の、南座夜の部「伊達の十役」である。
 歌舞伎は、後半に行ったほうが良い。芝居がこなれている。と言ってくれた人がいたが、今回、前半後半、昼夜を再見できる幸運に恵まれ、その感覚をライブに感じることができた。
 芝居が硬いなんて、感触を得られるのも、ライブに舞台を見る喜びであり、一ヶ月同じ芝居がかかるという歌舞伎のありかたを楽しむ醍醐味かもしれないと思うけれど。
(参考 → 
http://yukareview.jugem.jp/?eid=555 )

 早替りがスムーズになり、純粋に芝居を楽しむ余裕が観客の方にもできたこともあろうが、政岡の悲しみは胸に迫り、正視できぬような仁木弾正の悪の色香に酔いしれた。
 しかし、海老蔵は美しい。
 美しさは、悲しみや怒りを引き立てる。
 魅力的に演じるのは、もちろん、役者の腕の見せ所でもあろうが、美しき姿態は、美しい器あってのものでもあろう。
 器としての美しさゆえに、悲しみや怒りが際立つこともあると考えながら拝見した舞台だった。


      
| 23:57 | 舞台 | comments(0) | trackbacks(0) |
TIME TOHOSHINKI LIVE TOUR 2013
 東方神起のライブを見に、ナゴヤドームに行ってきた。

 暗闇のドーム、真っ赤なペンライトが振られる満員の観客席は、それだけで壮観!
 光の帯が芸術的に放たれ、彼らがあらわれると女の子たちの悲鳴にも似た声があがる。
 訓練されたダンスと、光る汗は肉体美を最大限に表現する。
 ドーム中の観客を楽しませようとする、スクリーンも含めた舞台装置の妙は、考え抜かれているものだと感心するしかない。

 あっという間の三時間半。振り返れば、ずっと立ちっぱなしであった。

                 
| 23:59 | 舞台 | comments(2) | trackbacks(0) |
五月花形歌舞伎
ゴールデンウィーク最終日は、京都四條南座へ、夜の部を見にいくことにした。

慙紅葉汗顔見勢(はじもみじあせのかおみせ)
三代猿之助四十八撰の内 伊達の十役
市川海老蔵十役早替り宙乗り相勤め申し候

海老蔵が題名どおり、一人、善悪十役を早替りでこなす。
口上で、海老蔵が、恥も外聞もなく、顔を紅葉のように赤く、また汗をかいて早替りをするのだという題名だと説明をしたが、早替りの趣向は数々のパターンを踏み、見ていて驚きも含めエンターテイメントの色が濃いものである。
俗っぽい悪人・土手の道哲、健気な腰元・累、傾城高尾太夫、正義の人・細川勝元 等々、美丈夫海老蔵の様々な顔、声色が楽しめる。
仙台藩の御家騒動、乳人政岡の物語は見せ場満載で、もう少しゆっくり哀しき美学に浸りたい観客も多くあったようだが、それゆえに解りやすく飽きさせない舞台でもある。
特に、仁木弾正の悪の色香は逸品で、妖術使いの美しき横顔に見とれるしかない。

 
| 23:48 | 舞台 | comments(0) | trackbacks(0) |
五月花形歌舞伎
五月花形歌舞伎の初日ということで、京都四條南座に行った。
初日の昼の部。役者陣のセリフも少し硬く、芝居がこなれていない。
しかし、久々に、海老蔵の姿をライブに拝めたし、海老蔵の「鎌髭」は、色彩豊かな、歌舞伎らしい歌舞伎であり楽しませてもらった。

☆ 新歌舞伎十八番の内 高時
☆ 太刀盗人
☆ 歌舞伎十八番の内 鎌髭

昼の部は、以上三演目。
 
 中でも、「
市川海老蔵景清にて大荒事相勤め申し候」という副題の付いた、歌舞伎十八番『鎌髭』は、四世市川團十郎(当時三世海老蔵)が初演した演目を、海老蔵が新たな構想で復活上演するということでも話題になった。

 海老蔵は、演じる、悪七兵衛景清について以下のように語っている。

 「勧善懲悪が根本の歌舞伎十八番のなかに、青黛(せいたい)が混じっている意味を明確にしたい」
 お馴染みの『暫』の鎌倉権五郎や『助六』、『矢の根』の五郎が紅で隈を取るのに対し、歌舞伎では悪を意味する青黛を取って登場する景清。しかし景清は、勧善懲悪が基本の歌舞伎十八番の中にあって、勧善懲悪にはおさまらない魅力をもつ。
 
誰も見たことのない場面の芝居であるわけだが、海老蔵は、
「罠を仕掛ける人間がいて、罠にはめられることを知っていて乗込んでいく男。わかっていて罠にはめられるので、なんということもなく、仕掛けた相手の負のエネルギーを圧倒し、悠然と去っていく男、その強さを表現できればいいと思っています」
と、景清の存在を定義付けている。

 芝居の中での口上で、景清は、急逝した父・團十郎にその強い男、景清役を演じてもらう予定だったと海老蔵は述べた。残念ながら願いは叶わなかったわけだが、自らがその役に挑んでの上演となり、力が入っているのも頷けるところ。

                                     
                                 
| 22:16 | 舞台 | comments(0) | trackbacks(0) |
平家残照
 滋賀県立文化産業交流会館イベントホールに、特設舞台「長栄座」が作られ、常磐津が聞けるとのことでご招待いただいた。
 昔ながらの芝居小屋のイメージだろうか、桟敷席に座布団という風情が楽しい。
 文化振興事業団や教育委員会が主催・後援しており、文化庁の助成をうけての舞台。地元の文化伝承、保存の意味も含まれている。創作長唄や創作邦楽を聞く。笛に小鼓、大鼓、三味線や琴の演奏を楽しんだ。

 そして、最後は、人間国宝 常磐津 常盤津一巴太夫による、
新作素浄瑠璃 常磐津「近江八景」

 素人の私に は、歌舞伎の劇付きの付随音楽として聞いたものと比べるしかないわけだが、82歳の人間国宝の歌をどう感じるかという問いに答える言葉はない。
 粋や洗練を感じながらも、どこか弱弱しく思えて、心動かなかったのは、ジャンルのせいか、声の衰えに勝る粋を感じ取るだけの選択肢が聞き手にないからなのか、判断もつかないからである。

 ・・・と、いうわけで、会場でCDを購入し、聞いてみることに・・・。
 やはり、粋だな。
 
 私は、何かに感動すると、やってみたくなるというよりは、集めたくなる収集家タイプなのだが、粋な歌声だけは、時々やってみたいなという気持ちがうごめくことがある。
 まさしく、そんな気持ちになる、粋な歌声。
 人間国宝相手に、失礼千万だけど、こんな風に、三味線にあわせて歌えたら、どんなに素敵だろうと思わせてくれる。

            人間国宝シリーズ(3)常磐津
                      収録曲は「廓八景」と「お夏狂乱」
| 22:02 | 舞台 | comments(0) | trackbacks(0) |
市川海老蔵 古典への誘い
 京都・南座 2012年9月29日17:00〜の部「市川海老蔵 古典への誘い」を見てきた。

 オープニングトークは、市川海老蔵さんが、スーツ姿で登場。舞台上ではなく、客席におり、来場者にからみながら、能と歌舞伎の歴史、今日の舞台競演への思いなどを語った。

 歌舞伎舞踊の代表的演目の一つである「連獅子」は、能の「石橋(しゃっきょう)」という演目をもとにつくられた作品であるとのこと。
 「古典への誘い」は、その二つの演目を見てもらい、古典芸能へ、多角的な興味を持ってもらおうという海老蔵さん自身の企画とのこと。
 能の方の説明をされた梅若紀彰さんは、なかなか話し上手。
 獅子は、文殊菩薩のつかいであるが、「神」と「鬼」は近いものとして扱われる。 世阿弥は、「風姿花伝」のなかで、「神」を演じるには、どこかしら怒れる風に演じよと書いているのとのことだ。
 神が、純粋な怒りを内包しているという論は、心に響くものがある。
 また、連獅子のトレードマークのような、毛振りはなく、「獅子身中の虫」を追い払うような、胸から振る顎の仕草、顔の動きで獅子の表現をするとのこと。

 そんな説明があって、まずは

◎半能「石橋(しゃっきょう」

 ※半能とは「能の略式上演方式の一つ。ワキの登場のあと、前シテの部分を全部省略し、後シテが出て後半部分だけを演ずる。」とのこと。石橋(しやつきよう)』などは、むしろ半能で上演されることが普通になってきている・・・らしい・・・。

 唐の霊地・清涼山のふもとには、文字通り石でできた橋「石橋」(しゃっきょう)があり、その向こう岸は文殊菩薩が住む浄土であるといわれてきた。その石橋は、幅、一尺に満たず、苔むしていて滑りやすいものであるとのこと。また、そこには文殊菩薩の遣わしめである霊獣の獅子が現れ、咲き乱れる牡丹の花に戯れる姿を見せるといわれている。

 激しい囃子、勇壮な雰囲気。静けさのなかに、鳴り響く笛に、神々しさをこえて、どこか狂気を感じる。

 牡丹の花に戯れつつ豪快に舞い、万歳千秋(国家の長久の繁栄を祝して唱えることば)をことほいているらしいけれど、エネルギーというものは、狂気と隣りあわせかもしれないと感じる激しさだった。その激しさを、ある正しい方向に発散している喜びはあるのかもしれない。そしてそれが純粋な「怒り」であるとされるのも面白い。
 
 そして、歌舞伎では、その「石橋」をもとにして、「石橋物」と言われる数多くの作品が生まれた。
 その中の一つ、

◎歌舞伎舞踊「連獅子」

 こちらは、なじみもあるわかりやすい。親獅子が試練のため子獅子を谷へ突き落とすという比喩をテーマにしており、いつまでたっても谷から登ってこない子獅子への心配や、登ってきた時の喜びを存分に表現し、後半の、牡丹の花に戯れ、文殊菩薩の使いとして踊る毛振りのシーンとなる。

 深いかかわりを持ちながら、どちらも独自のものとして発展してきた、能と歌舞伎。
 その、躍動美の極致、形の中の表現力を並べた上で、存分に味合う趣向なのだから、見るほうはもちろん、演じる側も力が入らないはずがないだろう。
 とても面白い企画だったと思う。いろいろな意味で、刺激的な舞台だった。



                 
 久々の京都・南座だったが、桟敷席に、舞妓さんや、芸子さんがずらりと、ならんでいて、とても華やかだった。連れてこられていた男性に「兄さんおおきに〜」なんて言っていて、生の「兄さん」のイントネーションにちょっとドキドキしたりもした時間だった。(蛇足的感想)
 市川海老蔵の顔は、本当に見るだけで幸せになれるくらい男前である。白獅子のなんて似合うことだろうか☆(さらに蛇足的感想)
| 22:09 | 舞台 | comments(2) | trackbacks(0) |