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熊川哲也 Kバレエ カンパニー 「クレオパトラ」 in Cinema

 熊川哲也が主宰するKバレエカンパニーによる公演を映像化し、映画館で上映する「熊川哲也 Kバレエ カンパニー in Cinema」

 全幕オリジナルの作品として、2017年10月に上演された「クレオパトラ」の舞台を収録。全2幕5場

 

 舞台を映像で見るのは、どこか苦手だ。視線が固定されるということはこんなに窮屈なものなのだろうかとベストロケーションであるはずの映像を見ながら思う。

 今回特に窮屈さを感じたのは、画面から飛び出んばかりのアップ画像が多く、もう少し引いてバレエを楽しませてくれという思いが沸いてきたからだ。

 しかし、おかげで、Kバレエカンパニーのダンサーの顔は覚えられたということになるのかもしれないし、映画で観る層というマーケットを考えれば、ライブの舞台とは異なる見方をするということも含め、迫力を重視した映画的手法ともいえる映像は、ありなのかもしれないと思う。舞台と映画、補完か、はたまた別物と評価すべきか、役割という言葉が、頭にちらついてどうもうまく気持ちがまとまらない。

 中村祥子(クレオパトラ) 山本雅也(プトレマイオス)スチュアート・キャシディ(カエサル) 宮尾俊太郎(アントニウス)といった出演者。本公演では、複数のキャストであったはずだから、これがベストキャストなのだろう。

 

 時代背景のテロップが文字として流れる。そのことが、人に物語を求めさせすぎるのかもしれないと思う。だからこそ、未消化な部分が気持ちに残る。もしかしたら、普通に、バレエとして見たのであれば、それはそれで良いのかもしれないのにも関わらずだ。

 

 どうも歯切れが悪くなるのは、自分の中で、このもやもやした気持ちの原因が突き止められないからかもしれない。

 

 私が確信を持って言えることは、舞台セットの美しさ、衣裳のきらびやかさ、そしてラスト5分の音楽と人々の動き、感情の在り様、それだけで、この舞台は価値があるということだ。

 

 では、きっちり着地させてくれたはずの舞台の何が不満なのだと聞かれたら、私には、クレオパトラの魅力が腑に落ちなかったのだというしかない。私は、誘惑する女、愛を迷う女という主題はとても好きだ。だからこそと続ければいいのか、にもかかわらずと続ければいいのか接続詞に迷うが、迷いや孤独を感じるには至らず、権力にものをいわせたセクハラか、自堕落な権力者同士の逢瀬にしか思えなかった。歴史の荒波の中にうごめいた人の心の闇と光、女性の抗えない業が、美にまで昇華していないのだと思う。

 性を暗喩させる踊りのバリエーションは豊かでなかなか面白いし、山本雅也演じるプトレマイオスは良かった。どうしょうもないくらい男の子で、あれではクレオパトラが男に走りたくなるのがわかるし、殺されてしまう説得力を持っていた。

 

 黄金の傾斜の前にクレオパトラが座り込む場面、大きな階段の使い方は、憎らしいくらい美しく、一服の絵のようだった。

 構図としては、時の流れの大きさと世界観、そして一人の女の孤独は描かれているのだと思う。

 そして、そこから、怒涛のラスト5分に流れ込む演出だ。

 

                                                       

 

 ライブの舞台で見たら感想は変わるだろうか。なんだか、見たいような。いやいや、きっとこれは、クレオパトラが、圧巻の美しさと妖艶さで、悲しくも美しい恋と野望と、そして孤独を、身につまされるような説得力で演じてくれない限り、どこまでいっても私には響かないだろう。

 人の評価を信じ切るつもりはないが、クレオパトラを演じたのは評判の良いダンサーのようだ。今、これが限界なのだとしたら、これは、これで終わって良いような複雑な気持ちである。

 

                        

                                                             201801 日本 芸術監督・熊川哲也

| 00:45 | 映画 | comments(0) | trackbacks(0) |
関ヶ原

 久々の映画館での映画鑑賞という自身の環境も多分に影響していると思わなくもないが面白く拝見した。大好きな時代劇、所作としての役者の振る舞いに文句なく、勇壮ではあるが、残酷さも多分に伝える戦のシーンはいろいろな意味で現代人の鑑賞に堪えうる迫力があった。

 

 だだ、では、自分の中で大絶賛であったかと問われれば、期待していた分、期待外れのことも多かった。

 乱暴に、わかりやすく書いてしまえば、早口すぎて聞き取れないセリフが多すぎた(それでも、良い役者は聞こえるし魅せる。だが、そんなところで役者の良し悪しを視聴者に判断させることは本当に必要なのかとも思う)ということと、石田三成という人の魅力が、私にはさっぱりわからなかったということだ。

 

 もちろん、石田三成の魅力は、登場人物のセリフによっては語られる。

 島左近が、子どものように意地をはっているだけなのに人からは、知的であるがゆえにすべて戦略のように解釈されて損な人だと言う場面もあるし、島左近や大谷刑部に慕われている人だから、魅力のあった人なんでしょうねというのは伝わってくるわけだが、三成自身の姿からは感じないのだ。

 石田三成の私のイメージは知的かつ野心家、しかし、どこか狭量なところがあり、知的ゆえに自身がどこかそこにコンプレックスに似た気づきを得ているため小心で卑屈なところがあるというものだった。今回それを打破する、もしくは、にもかかわらず魅力的な石田三成像を期待していた訳だが・・・。

 石田三成とはなんだったのか、一つのアイコンでしかなく、人間味や彼自身のドラマは残念ながら感じなかったということである。

 見せどころはあったはずだ。私なら、自分を庇護する権力者あって能力を発揮できた男の、純粋でいることが許された恵まれた環境が失われ、豊臣秀吉、前田利家、失われゆくにつれ迫りくる薄汚れた世の中にどう傷つきどう足掻いたに焦点を当てたドラマが見たい。

 

    しかしながら、役者たちは魅力的であった。滝籐賢一演じる、固執と執着の権化になりつつも威厳と天才性がのこる豊臣秀吉。役所広司演じる徳川家康の老獪さと肝のすわった独善性。爪を噛んでるだけで、憎たらしい、得体のしれない闇を感じさせる役者はそうそうないだろう。松山ケンイチが演じた直江兼続も出番は多くなかったが、腹の探り合い、動きそうで動かないもどかしさと期待を感じるシーンを上手く描いていた。

有村架純の初芽は思いがけず良かった。伊賀の忍びであり、三成の恋の相手であるが、思いつめたような初々しい表情と、若さ感じる姿には画面に花を添えていた。しかしながら、後半のエピソードは、物語の全体感として必要とは言い難く、さらに、刑場に送られる三成との目配せに至っては、彼女の視点から考えれば必要かもしれないが、三成を軸に考えるなら、最後の最後に何を象徴させたいのかさっぱり理解できないとしか言いようがない。

 今回、一番、私の気持ちに残ったのは、小早川秀秋(東出昌大)である。裏切者という言葉で象徴されてしまう小早川を、当代きっての爽やかな美男子が演じるということで、どうなるのだろうと思っていたが、迷いやしがらみに翻弄されながら、自分に誠実であろうとする気弱な男の哀しさと、時代に合わない正直さが胸に迫ってきた。

 

 司馬遼太郎の『関ヶ原』は未読であり、原作と比べての話はできないが、いろいろ魅力的であり、いろいろな残念な、とたばたした映画だった。

      

                                     

                                                  2017 東宝 監督・原田眞人 主演 岡田准一

| 08:42 | 映画 | comments(0) | trackbacks(0) |
マザーレイク

どんな映画だったのか? と問われれば、良い映画だったと答えよう。

琵琶湖の景色はどこまでも美しく、その風景を背景に、初恋と家族への思い、友情が交錯する。

関西弁とひとくくりにされて、出来の悪い大阪弁で代替されることの多い、滋賀弁が、きっちり滋賀弁として物語を盛り上げていた。

鶴田真由演じる主人公の伯母が、地元では有名なスーパー平和堂で働いており、見慣れた制服、ハトのマークが使われている。自然だけでなく、暮らす者が目にする風景、滋賀のすべてを映画は映し出していた。

滋賀への愛を存分に感じる映画。

とはいえ、つまらないという人にも共感してしまうのも事実。

最後の結論が、極めて前時代的。

琵琶湖の恐竜びわっしーを見た男の子は、夭折した母の才能を受け継ぎ写真家になるわけだが、大きな賞をもらって、ヨーロッパで数年暮らすと言う。東京に引っ越していった初恋の女の子は、滋賀に戻ってきて小学校の先生になる。

男は、才能を認められ外国へ、女は、地元で教師。

なんで、外国に行く必要があるのか? 亮介、お前の地元への愛はどこに行ったんだ?

なんと、型通りでつまらない成功が頂点として描かれていることだろう。

爽やかで、琵琶湖の風景の邪魔にならないという利点はあれど、なんだか、なんのポリシーも感じない。

私の一番の不満は、父のその後が描かれていなかったことだ。

写真家として認められていた妻が早く死に、夢のない自分が生き残った。その負い目の中で、妻に少しでも近づきたいと、会社を辞めテレビ局に勤め、姉に食べさせてもらっている。妻の見たもの、子どもの見たもの、それを感じ、突きつけられたた父はその後どうなったのか。映画にはヒントもない。

よくあるストーリーを寄せ集めているから、みんなそれぞれの経験と既視感で補てんして、物語が破たんしないのだろうなと思う。

それでも、やっぱり琵琶湖は美しい。

そんな映画である。

 

          

          

           2016 日本 監督 瀬木直貴 キャスト 内田朝陽 鶴田真由 別所哲也

| 15:22 | 映画 | comments(0) | trackbacks(0) |
そして父になる
 第66回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、審査員を受賞した話題作。
 主演の福山雅治が映画祭で振りまいた笑顔が印象に残っている。
 その笑顔の残像を追うべく見に行った作品。

 小学校のお受験に成功した息子。
 大手建設会社に勤務し、ホテルのようだといわれる都心の高級マンションで暮らす家族。
 職場では優秀だと前途を有望視され、家族と過ごす時間は少ないが、福山雅治演じる野々宮良多は、知性の勝った人間として、誰からも責められることのない、誠実で豊かな毎日を送っていた。

 しかし、その息子が出生時に病院で取り違えられた別の子どもだったことを知らされ、生活の根底が覆ることになる。

 取り違えられたもう一組の家族、斎木夫婦と対面し交流を始める。病身側への要求一つとっても、真意を知りたいという野々宮と、誠意は金であらわすべきだという斎木。二組の家族は、あまりに違う環境と価値観を持ちながら、病院を相手取って裁判を起こし、息子の今後について結論を出さなければならないという共通の時間を過ごすことを余儀なくされる。

 誰もがうらやむエリート夫婦。そこには、誰もが想像できるように、忙しさに隠された不満が隠蔽されている。
 つぶれかけの電気屋の夫婦。品も教養もない逞しさの陰に、誰もが想像できるように子どもとのふれあいと時間という、人間の豊かさがある。
 誰もが想像できる、使い古された対極にある二つの家族。

 役者陣の演技は、誰をとっても素晴らしかった。野々宮夫妻に福山雅治と尾野真千子、斎木夫妻にリリー・フランキーち真木よう子。福山の父に夏八木勲、尾野の母に樹木希林。
 苦悩と葛藤の世界を、それぞれの立場で見事に演じている。

 誰に感情移入するかで、物語の評価は変わるのかもしれない。
 私は、福山雅治演じる野々宮良多にしか添えなかった。
 そして、彼が誠実に「父になる」ことに取り組む姿。否、「父になる」ことに追い込まれていく姿に、終始、苛々とその顛末を見守ることになってしまった。

 「僕にしかできない仕事があるんです」という野々宮に、斎木は「父親かて取り替えのきかない仕事やろ」と言う。今後の子どもたちが、環境を越えて、血にひかれ、お互いに似てくるかもしれないと案じる野々宮に、斎木の妻は「似てるとか似てないとか、そんなことにこだわっているのは、子どもとつながっているって実感のない男だけよ!」という。

 わざと取り違えたと告白した看護師に、慰謝料を返しに行く野々宮は、自分の幼い頃を思い出し、父の妻、なさぬ仲の母親に電話をかけるシーンがある。
 あの時は、と切り出す野々宮に、風吹ジュン演じる継母は、あなたとはもっとくだらない話がしたいと言葉を遮る。誰がカツラだとか整形だとか・・・その可笑しさに悲しみが滲むシーンではあるのだが・・・。

 彼は、過去を贖罪することも許されない。

 自分の価値観ではなかった人間像の象徴のような人々から、否定され、正義は自分にあるといわんばかりに、あるべき方向を示され、それに同調した妻から、「父」という役割に追い込まれ。
 無垢ではあるが、人を傷つけてなお、人間らしくある子どもたちに、自分の無力を突きつけられ、自分を出来損ないの父親だと自覚させられ、公言せざるを得なくなる。

 相手の子どもの前で、他方の家庭に行った、育てた子どもの電話を取る母の無神経さは、母として許され、父は、自分らしく生きることを否定され、父という役割に追い込まれていく。
 それが「父になる」ということなのであれば、父とは、一体何なのだろうと、考えざるをえない。

 リアルなのだと思う。
 役者も良い。人物像には誰も破綻がない。
 文句がつけようのない一方で、私は、イラつく自分を抑えられない。

 実話ではないのだから、物語が意図したものは、一体何なのだろうか?

 毎日、あれだけ親に手をかけてもらいながら練習し、発表会で失敗だらけのメリーさんの羊しか弾けない(弾かしてもらえない?)というシーンに託されたものは?
 エンドロールは、グレン・グールドの演奏する1981年の名盤「バッハ:ゴールドベルク変奏曲」からアリアが使用されている。確かに、ハミングまじりのグールドの演奏は、物語を思わせぶりに思慮深い世界に温もりを残しながら誘うが、演奏会を拒否し、録音ピアニストとして自己の世界に立て篭もった、天才ピアニストの演奏に何を思えばいいのか。

 理屈としても、象徴としても、感性としても、私には何も見えてこなかった。 




                       そして父になるの場面カット画像
                                  是枝裕和 監督  2013 日本映画
| 23:59 | 映画 | comments(0) | trackbacks(0) |
天国の門 デジタル修復完全版
 今回初見である。
 なので、残念ながら、1980年劇場公開版との比較はできない。
 しかし、アメリカが、現在のアメリカとしてあるために通ってきた精神的史実を見せられたような衝撃は言葉にできない凄みがあった。
 素晴らしい映画だった。 

 1870年、ハーバード大の卒業式。
 前途、無邪気、若者らしいエネルギー、そして恋。すべてを謳歌する学生たちの、回る回るダンスと行進。
 ジム(クリス・クリストファーソン)は、大勢の学生に混じって総長の祝辞を聞き、ビリー(ジョン・ハート)は、新世代の到来の予感を感じさせる生徒代表の言葉を述べ、大人たちに眉をしかめさせる。
 時は流れて、20年後。
 彼らが住むワイオミングにはロシア・東欧系の多くの移民がやってきた。夢を持ってやってきた彼らではあったが、騙されたものも多数あり、戻れない食えないという環境の中で、盗みを働くものも多く、現地民の差別心を煽り、トラブルが頻発していた。
 ジョンソン郡の家畜業者協会の評議会で指導者カントンは牛泥棒を働く移民の「粛清」議案を提出。牛泥棒への粛清とは名ばかりで、それは、移民全てを虐殺する、処刑リストでもあった。
 その地に保安官としてやって来たジムは、評議会に出席していた今は酒浸りのビルから粛清計画の話を聞く。
 その処刑リストには、ジムが思いを寄せている娼館の女主人エラ(イザベル・ユペール)の名前もあった。牧場主の雇われガンマン・ネイト(クリストファー・ウォーケン)も彼女を愛しており、エラは、自分の居場所にも、愛の形を貫くことにも固執し、二人の間で揺れ動く。

 そして、移民を粛清するため郡に雇われたハンターたちが、彼らのもとへと向かってくる……。

 史実とは異なる部分も多いとのことではあるが、本作は、合衆国の西部開拓時代の、最大の悲劇として知られる「ジョンソン郡戦争」という呪われた抑圧の歴史的事件を元にしている。
 
 結婚をにおわせるエラへ、なぜジムは歯切れが悪かったのか。ネイトが、ジムへ、俺はおまえが嫌いだ。金持ちのクセに貧乏人のふりをするという言葉の意味は、ラストシーンで、やるせない日常として描かれる。
 
 男女を越えて、一人の人間としての幸福と生き様が、歴史的事件に翻弄される。新世代が変えられたこと、変えられなかったこと。酒びたりになって死んでいくビリーにも、生きながらえたジムにも、青春の残像と共に、今がある。
 その姿が、美しいロケーションの中、多くのエキストラ、迫力の映像、壮大なスケールで描かれる。

 それは、アメリカが、アメリカになるために通った道である。
 異国人である私にとって、アメリカという国の、不可解な部分も、その正義と、理想も、この映画によって体感的に納得できる気がした。

 さて、私が今回見たのは、デジタル修復完全版と呼ばれる216分バージョンである。
 あっという間の三時間半だったわけだが、これが、1980年公開時には、150分に切り刻まれて一般公開されていたというから驚きである。
 以下はパンフレットより当時の経緯、今回の修復過程の抜粋。


  1980年代初頭。『ディア・ハンター』(78年)で米国アカデミー賞の作品賞、監督賞をはじめとする5部門を受賞し、アメリカ映画の今後の担い手と期待されていたマイケル・チミノ監督の『天国の門』は、ハリウッドの老舗スタジオ(チャップリンやD・W・グリフィスなどによって設立されたユナイテッド・アーティスツ)を消滅させる地獄の使者となってしまった。1000万ドルだった予算も撮影期間(最初の12日間で既に予定より10日オーヴァーした)も大幅に超過し、実に製作費4400万ドル(当時のレート換算約80億円)という巨額が投じられた本作は、当初のヴァージョンが大幅に切り刻まれて150分の作品として一般公開されたものの興行は大惨敗。誰にもコントロールできない怪物のような映画として、生みの親のスタジオまでも食いつぶしてしまったのである。

 2005年に、MGMは合衆国とヨーロッパのいくつかの映画館で『天国の門』3時間39分版を公開した。この版はMGMのプリント保管係ジョン・カークが修復作業を担当したもの。1990年代初頭にMGMが保管料を切り詰めるため、200時間以上あった『天国の門』の撮影素材(オリジナル・ネガの大半とさまざまなアウトテイクを含む)を大部分廃棄してしまっていたおかげで、作業は困難をきわめた──見つけることのできた使用可能な素材を、すべて継ぎ合せた──という。チミノはこの修復作業に関与しなかった。完成した修復版プリントはまずパリで、次いでニューヨークの近代美術館で、イザベル・ユペールによる舞台挨拶つきでおこなわれた。ただし、修復版の製作責任者でアートシアター系映画に理解のあった当時のMGM重役ビンガム・レイ(1945年〜2012年)がその後間もなく同社を追われたおかげで、同プロジェクトの予算は削減され、予定されていた拡大公開とDVD発売は実現しなかった。

 このマイケル・チミノの「天国の門」のデジタル修復は、MGMの許可の下、パーク・サーカス社とカラー・ワークス社のサポートを得て、クライテリオン・コレクション社が行ったものである。
 『天国の門』のオリジナル・ネガは、1981年の公開時に149分に短縮カットされてしまったため、この219分のディレクターズカット版修復のベースとして用いることが出来なかった。幸い長尺版は、カラー・ネガを三原色(イエロー、シアン、マゼンタ)に分解し、それぞれを3本に分けたマスター・ネガがYCMに保存されていた。この3本のマスター・ネガをロサンゼルスのカラー・ワークス社が2K解像度でスキャンし、デジタル合成によってオリジナル・カラー・ネガを作成した。クライテリオン・コレクション社は付加的なカラー調整およびゴミや傷を修復する作業を行うと共に、6トラックの磁気ミックスからサウンドトラックを復元した。カラー調整および映像と音声の修復はすべてマイケル・チミノの直接の監督の下に行われた。



 
              
               

           マイケル・チミノ監督 2012 アメリカ (1980 劇場公開)
| 22:45 | 映画 | comments(0) | trackbacks(0) |
劇場版タイムスクープハンター 安土城 最後の1日
 タイムワープ技術を駆使し、過去を調査・記録する機関「タイムスクープ社」
 時空ジャーナリスト・沢嶋雄一が、時代の大きな流れの中で、確かに生きた、歴史に埋もれた名もなき人々を取材する姿を描く。
 NHKのドキュメンタリードラマ風歴史教養番組「タイムスクープハンター」の劇場版である。

 「本能寺の変」直後の京都にタイムワープした沢嶋が、混乱し無法地帯になった、京都、滋賀で取材を行う。織田信長の天下統一の拠点となりながらも、完成からわずか3年で焼失したとされる幻の名城・安土城の謎は解き明かせるのか?

 
島田久作のあざとい演技は、相変わらず素晴らしかった。博多の豪商・島井宗叱を演じた上島竜兵の意外な熱演とあいまって、お遊びのような真実のような、ドキュメンタリーのよう虚構のような、不思議なリアリティを成功させていたと思う。
 
 自分を「わらわ」と呼ぶ、夜鷹姿の
志乃(実はタイムワープをつかって歴史的に大切なものを盗むオルタナスナッチャー)の存在は中途半端だったし、タイムスクープ社研修生の細野ヒカリが、安土城落城にこだわる意図も見えてこない。
 歴史を修復するために、沢嶋が訪れる、1985年と1945年にいたっては、風俗は巧く描かれているものの、スケ番やヤンキー、慰問袋をつくる婦人会の面々も極めて平面的に滑稽に処理されている。物語としては、このチープな逃走劇がコントのようで、良い刺激になっているのは確かだが、「名もなき人」を掘り起こすはずのお前がそんなんでいいのか? なんて意地悪も言いたくなる場面ではある。

 言いたいことは、いろいろあれど、面白かったというのが最終的な結論だ。
 
タイムスクープ社の歴史調査は二つの組織に別れている。
 「歴史上の大事件や有名人物の調査」をアーカイブする「第一調査部」
 「名もなき人々の営みの調査」をアーカイブする「第二調査部」
 沢嶋は、「第二調査部」で働くことを誇りに思っており、研修生の細野に自分の歴史への思いを語るシーンは好感を持った。
 タイムスクープ社の制服がカッコイイ。
 そして、安土城跡と、彦根城の映像をふんだんに見ることができる。
 それで、いいかな? と思わせてくれる映画である。
  
                        劇場版タイムスクープハンター 安土城 最後の1日の場面カット画像
                                  中尾浩之 監督 2013 ギャガ
| 22:21 | 映画 | comments(0) | trackbacks(0) |
いのちがいちばん輝く日〜あるホスピス病棟の40日〜

 地元、滋賀県の近江八幡市にあるヴォーリズ記念病院でのドキュメンタリー映画ということで、お付き合いのチケットを買った。
 まず、なぜそんなことを言うかと問われれば、予想を超えて良かったからである。
 ホスピスでの話である、当然死に行く人と向き合うことになる。ヴォーリスである。キリスト教の思想に裏打ちされた愛がそこにあるに違いない。当然、違いないという言葉を重ねながら、へそ曲がりの私は、突きつけられる問題と、心が揺れ動くであろう枠を自分でつくっていたのだと思う。
 この映画は、それを超える個別の真実の重みと、宗教という背景を超えた愛に溢れていた。

 六回目の冬を迎えようとしているホスピス「希望館」。
 最末期を迎えたがん患者のための医療施設である。
 死に向かう人とは思えないほど、穏やかな顔をした患者と、その家族。
 医師も看護師も、患者一人ひとりの聞き取りにくくさえある言葉に耳を傾け、その言葉をくり返し確認し、思いを共有しようとする。
 その、丁寧に時間をかけ、その人の最後の時間に向き合っていく姿勢に圧倒された。
 ホスピス医の細井順さんは白衣を着ない。それはがんを患った自身の経験から、「患者も医者も同じ弱さを持った人間同士」であるという考えに至った結果なのだそうだ。細井さんは目線を合わせて患者の「痛み」や「寂しさ」に寄り添う。

 何人かの患者の人生がドキュメントとして追われていくわけだが、私は、一番、高校の音楽教師・池本成博さんの人生が印象に残った。
 首の付け根にがんの腫瘍が見つかり、余命1
年と宣告され、希望館に入院。生まれたばかりの二男の孫に一目会うため、東京までの旅行を計画する物語がメインである。
 通院だった頃の池本さんの、教師然とした姿に、どんどん死の影が、比喩ではなく近づいているのがわかる。ローレン・バコールの自伝『私一人』の中に、病の床にあった、夫、ハンフリー・ボガードに添い寝をした時、死臭がしたことを書いていて印象に残っている。死の匂いがしてくるような池本さんの姿を、過剰に演出することなく淡々と描くその映像に、バコールの言葉を重ね、怖いような震えを覚えた。
 一人の職業人として、医師や看護師、彼らの日常に寄り添ってみる。
 今日が最後かもしれない人と、自分の日常が交差するのである。
 いったい、人間は、どこまで誠実に、自分にとっては、何でもない今日を生きられるのだろうか。

 映画の後は、企画・演出を手がけた溝渕雅幸さんと、『ガンが病気じゃなくなったとき』を執筆し、夫を在宅で看取った岩崎順子さんの対談が行われた。


      

溝渕さん☆
 32万人のがん患者が年間に死亡している日本において、ホスピスで最後を迎える人は7%、そして、在宅で亡くなる人も7%弱。ほとんどの人が、一般の病院でなくなっているということになる。ホスピスでも長期入院が難しい現在、1977年以前のように、在宅で看取ることも多くなっていくのではないか。
 死に場所のない時代がやってくるかもしれない。
 命というものは、人間が動物である以上、死をもって終焉する。
 しかし、生きてきた証は、血縁関係なく思いも含め受け継がれていくのではないか? 良い別れをしてこそ、その人の力で、また誰かが生かされていく。
 生きる力は、どのように伝わっていくのか、その命のリレーを知りたくてこの映画を撮った。
 余命宣言から、一年なりなんなりの時間があるガン患者は、幸せであるといえるのかもしれない。なぜなら、犯罪被害者や、災害にあい、ある日突然命を絶たれた人は、死に備える準備期間がないから。
 死を意識したところから、本当の人生は始まるのだ。

岩崎さん☆
 夫の死に立ち会って、生きようと思っても元気になれないのと同じように、もうここまでで良いと自分が思ったところで、心臓は止められないという事実を突きつけられた。
 死体になった夫に、子どもたちは触って気づいたこと。顔は冷たくても、お腹はそれでも温かかった。
 人の死に立ち会うと、残されたものは、必ず後悔する。あんなことしなければよかった。もっとこうしてあげたらよかった。後悔は、大事な人に会えた誇りではないかと思う。

      
           柏木哲夫/細井順 監督
 有限会社オフィスアクシス/アールズスタッフ 制作  2012

| 22:57 | 映画 | comments(2) | trackbacks(1) |
リンカーン
 スティーブン・スピルバーグ監督が、名優ダニエル・デイ=ルイスを主演に迎え、アメリカ合衆国第16代大統領エイブラハム・リンカーンの人生を描いた伝記ドラマ。
 ダニエル・デイ=ルイスの、少し猫背の、思慮深い、そして孤独な立ち姿が、どんな言葉よりも、リンカーンという人物を立体的に表現している。その姿と、人の心を掴まずにはおかなかったであろう、温かな声を聞くだけでも一見の価値ありといいたくなる映画。

 しかし、最初期待したイメージとは随分違うなというのが第一印象。感動大作という予告や、アカデミー賞受賞の晴れがましい宣伝文句、スピルバーグ監督作品だから、と、いうイメージからは遠かった。
 これは、心理戦、政治、議会の物語である。
 感動的な山場にしようと思えば、いくらでもできる場面があろうが、けして、リンカーンを超人的なヒーローととらえず、一人の固い信念を持った、政治家として描いている。
 人とのつながりも、これだけの政治家であれば、惚れた人間も数多くいただろうが、一人の魅力的な人間を中心にした義理人情の世界におさめてはいない。まさしく、それぞれの利害が渦巻く会議の場。多数決の原理。登場人物、それぞれが、生き様を露呈しながら、人間としてリンカーンと対峙し、あくまでも、奴隷制度廃止の「合衆国憲法修正第13条を下院議会で批准させる」ことへ、YesというかNoというかの決断と選択一点に焦点を合わせている。
 ミラクルはない。どんなに卑屈でも、どんなに身勝手でも、議員であるかぎり一票は一票の同じ重みを持つ。その一票をYesに投じしてもらわねば、自分の信念が具現化しないという事実。

 人気大統領という地位に甘んじることなく、奴隷解放運動を推し進めたリンカーンは、一方でその運動が引き起こた南北戦争で国が2つに割れるという未曾有の危機にも直面していく。

 人は、「大義」を通すためには、詭弁も良しとするのか?
 「大義」のために、プライドや固執を、胸におさめきれるのか?

 憲法修正に必要な数の「Yes」を勝ち取るためには、言わせるほうも、言う方も、それぞれの何かが問われ、試されていく。

 政治的な動き、それぞれの思惑。圧巻であったのは、リンカーンが、公の人であり続けるために犠牲にしたプライベートな部分への迷いはもっても、政治家としてはけして迷わない部分であろう。自分の信念を通すために邪魔になる、人の悪意や弱さ、差別心をリンカーンは、個人として責めることはない。あるのは採択へのゆるぎない思いだけだ。

 リンカーンは孤独だ。
 もちろん、同じ思いを抱えて、会議の場にいる人も多くいる。リンカーンの手足となることを生業とし、その思いを実現するべく活動している人々もいる。リンカーンを尊敬している兵士たちも、良い大統領だと声をあげる市民たちもいる。
 しかし、それは「大義」に賛否する生活者であって、リンカーン信者でも、リンカーンの仲間でもないのだ。
 家族とて、過分な応援をリンカーンにした様子は描かれない。生活者としての自意識と、当たり前の家庭への不満をリンカーンにぶつけ、自分の人生を歩んでいる。

 人はみな、まず、自分の生活があって、大義を思う。
 きれい事ではない日常とは、そういうものだ。
 その先に、政治があり、それを統括する大統領がいる。
 リンカーンは、政治の場に生き、そこで、大統領として、自分の理想をカタチにした大統領だった。
 そういう話である。
                    
          
           スティーブン・スピルバーグ 監督 2012 アメリカ映画
| 23:14 | 映画 | comments(0) | trackbacks(0) |
レ・ミゼラブル
 今年最初の映画に選んだのは、『LES MISERABLES』
 文豪ヴィクトル・ユーゴーの小説を基にした大ヒットミュージカルの映画化である。

 『レ・ミゼラブル』が書かれたのは1862年。日本でも、黒岩涙香が訳した『ああ無情』という題名で知られており、とりわけ、銀の燭台のエピソードは、児童向けの書籍としても有名である。小説に興味がない人でも、このエピソードを短編として読んだ人は多いのではないだろうか。そういう意味では、『レ・ミゼラブル』という原題を、知らぬ人がないほど周知させたのは、ミュージカルの方だと思う。1980年以来、世界各国でロングラン上演されてきた。

 1815年、ジャン・バルジャン(ヒュー・ジャックマン)は、飢えた妹の子どものために、パンを一つ盗んだ罪で投獄される。脱獄を繰り返したため、19年も刑務所で過酷な労働を強いられた後、仮釈放されることになった。
 自由の身とは名ばかりで、定期的に義務付けられた面接と、差別的な身分証明書に、現実の厳しさと人間の冷たさを突きつけられる毎日。憎しみに瞳をギラつかせていたジャン・バルジャンは、ある教会に倒れこむ。老司教の銀食器を盗み出すが、この食器は、この人にあげたのだという司教の慈悲に触れ人間の心を取り戻す。
 そして、8年の歳月が流れ、工場主として成功を収め市長になった彼は、以前自分の工場で働いていて、娘を養うため極貧生活を送るファンテーヌ(アン・ハサウェイ)と知り合い、幼い娘の面倒を見ると約束する。
 彼を追うジャベール警部には、ラッセル・クロウ。
 また、俗悪な女を演じさせたら右に出るものはいない、ヘレナ・ボナム=カーターが、コゼットの育ての親であり、時代の逞しき民衆のいやらしさを象徴するようなマダム・テナルディエを見事に演じている。

 158分もある映画を飽きさせず一気にみせる手腕も素晴らしく、ミュージカルでもおなじみの感動的なナンバーには胸が熱くなる。
 映画のテーマは、神と世俗であると思うが、歌は、人が神に近づける瞬間を一番表現できる方法なのだろう。もし、芝居だけで、この生のセリフと人の精神性を語るとするならば、よっぽど上手くやったところで、きれいごとになってしまう可能性は否めない。これは、ミュージカルでしか成しえない、理想と懺悔と真実の物語なのだと思う。
 神を正義とし生きたジャン・バルジャンは幸せに神に召され、世俗の「法」に神の正しさを求めたベジャールはその矛盾に苦しみ自死を選ぶ。この決着と、正義の求め方も、やはりミュージカルでなければ、リアリティ溢れる場面展開の中で、あまりに抽象的で、意図不明に陥るか、しらけてしまうシーンになるかもしれないと思う。
 すべてが、あるべきところに最良の形で収まった、良質の映画といえるだろう。

 しかしながら、前評判に期待しすぎたからか、号泣とはいかなかったし、今年はこれ以上の映画はないだろうというほど感動しなかったのも確かである。

 私が、この映画で一番印象に残ったのは、コゼットの運命の人となる、革命家のマリウスに恋をする貧民街の少女エポニーヌのセリフである。
 彼女は、先に紹介した、コゼットの育ての親マダム・テラルディエの娘である。マリウスとの身分の違いにも、彼の心にはコゼットしか住んでいないことも、そして、革命の意味も、その中でマリウスのために自分の命を投げ出せる勇気も、聡明さも持っている少女である。
 彼女が、マリウスに魅かれている自分の気持ちをこんな言葉で表現する。
「私、あなたの話し方が好きよ。」
 彼女の精神の美しさと、叶わぬ恋のどうにもできない切なさは、この言葉に凝縮されたのではないか。関係と人格とドラマ。そこにぴたっとはまる言葉は、なんの変哲もない言葉でも特別なものになる。その言葉に出会えただけで、あぁいい映画を観た。そんな気分になれるものだと思う。



                  
                        トム・フーパー監督 2012 イギリス映画
| 23:59 | 映画 | comments(2) | trackbacks(0) |
ダーク・シャドウ
 定評のあるティム・バートンとジョニー・デップのコンビ作品。
 正直、私は、このコンビの作品が好きではない。グロさの中に美を求める作品だと思うが、洗練された美しさをもちながらも、その美しさは精神的ではなく、どこか肉感的な印象をもつからかもしれない。エログロという言葉で片付けさせない知性を持っているとも思うが、私の美意識ではないというところだろうか。
 しかしながら、強く印象に残るのも確か。今回のように、悪い前評判をいろいろなところで聞いたりすると、どうしても見に行きたくなってしまう。
 悪い前評判の原因は、「予告」にあるらしい。
 時空を越えてやってきたジョニー・デップ演じるヴァンパイアが、自分の末裔のだらしなさに愕然とするというストーリーを強く感じる予告からは、抱腹絶倒の「価値観すれ違いコメディ」を想像する人も多いのではないだろうか。
 そういう側面が今回の映画にあることは確かなのだが、血への関心、宇宙的孤独、そして存在の滑稽さというテーマが強い。
 
 イギリスからアメリカに移り住んだ富豪コリンズ家に生まれたバーナバス(ジョニー・デップ)は、魔女アンジェリーク(エヴァ・グリーン)によってヴァンパイアにされてしまう。生きたまま埋められて、200年。彼が、その眠りから目覚めた1970年代、コリンズ家はすっかり落ちぶれていた。
 ヴァンパイア登場にふさわしい、豪華な古びた城と、1970年代の音楽や風俗が奇妙に絡みあう。
 魔女アンジェリークが、バーナバスを強く求めながらも呪い、タマゴの殻のようにひび割れていく姿は胸を離れない。シュールで軽い動きの中に、忘れがたい悲しみが滲む。この観客放置の感触が好きになれない理由かもしれないと思いつつ、やっぱり次があれば見に行くのだろうなぁとも思っている。


                           ダーク・シャドウ
                              ティム・バートン 監督 2012 アメリカ映画
| 22:25 | 映画 | comments(0) | trackbacks(0) |