ぜひぜひ読んでほしい本のショートreviewをUPします!
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半沢直樹
 2013年の大ヒットドラマ。



 メガバンクの行員・半沢直樹(堺雅人)を描く物語。



 「やられたらやり返す! 倍返しだ! ! 」のフレーズが流行語となり、倍返し饅頭なるものが売り出される!?ほどの過熱ぶり。なんとなく興味はあったのだが、最初の方を見のがしたこともあり、見ないまま現在に至る。



  流行語のイメージから、勧善懲悪的な痛快ドラマだと思っていたが、原作の『オレたちバブル入行組』( http://yukareview.jugem.jp/?eid=687 )を読み、舞台は銀行、そうそう一筋縄ではいかない物語を、どうテレビドラマとして料理しているのか興味津々だった。



さて、本日は、朝から一気にDVDで全話を見た。



バブル経済末期に銀行に入行した半沢直樹は、現在融資課長。



 夢を持って入行した世代ではあるが、25年経過した現在は、行内で中心的な役割を担うようになり、そろそろラインか否かで出向していく同期もいる。



 西大阪スチールという会社に、5億円の融資契約を取り付けることになるが、支店長の浅野(石丸幹二)から強引な指示と、新規融資にも関わらず「無担保」という無謀さを危ぶみながらも、一度進みだした組織の歯車は、半沢にも制止できず、融資は実行されてしまう。融資によって営業目標を達成した大阪西支店は、名誉ある最優良店舗賞を初受賞。



融資からたった3か月で、西大阪スチールはあっけなく倒産した。発覚する粉飾決算。



合併でメガバンクになったはいいが、「旧・産業中央銀行」出身者、「旧・東京第一銀行出身者」の派閥に分かれ出身会社で足を引っ張り合う権力闘争。



 そんな中、出世に執念を燃やす浅野支店長は、今回の失態の全責任を半沢直樹一人に負わせようと画策するのだった。



 いかに、債権を回収するのか。社内の派閥争いと人事の枠組みをのなかで、どう生き延び、人間らしい友情を築き、維持していくのか。



 同期のキャラクターも、飄々と組織に順応しているように見せて強い信念を持つ渡真利忍(及川光博)と、強い正義感があだになり、心の病を抱えて出向させられる近藤直弼(滝藤賢一)とリアリティがある。



 半沢直樹の正義感、融資がらみで死を選ばざるをえなかった中小企業の社長である父の復讐と、バンカーとして恥じない生き方をしたいという思いは、大企業組織と個人の関係を図式的にうまく描いているように思う。愛と憎しみの複雑なる日常化である。



 面白いのは、正義は役職、場所に関わらず、貫くか、貫けないかという視点で描かれているのだが、悪には、しっかりとランク付けがされていることだ。薄汚い目先の欲と保身にに振り回される悪人と、ぽっかりと底の見えない暗闇を感じる悪とその大きさに見合う許容量を持った悪人。

 

 悪で、魅力的だったのは、やはり「旧・産業中央銀行」出身の大和田(香川照之)



 半沢直樹を面白がり、少し怖がり、権力と立場を利用した悪にどっぷりつかっているクセに、不思議な威厳と余裕を持っている。どこか他人事のように自分の人生をみている感じも含め、大きな組織の中のこういう得体のしれない怖さの象徴的存在なのだと思う。



 「旧・東京第一銀行出身者」の中野渡頭取(北大路欣也)は、すべてを見通している。派閥を超え、人間を掌握している、企業の良心のように見せかけながら最後に、やってくれる。



 昨年亡くなった父が、半沢直樹は面白いから見た方がいいと私に言った。



 最後の、人事、あれがサラリーマンの現実なんだと。



 父自身、サラリーマンとして生きていく中で、少なからず立ち合い、経験したことなのだろう。

 それが面白いと、それが現実なのだと矛盾する言葉で表現する物語の結末こそが、この物語の魅力なのだと思う。



 正義は、成功には直結しない。



 だけど、人は正義と、成功を望む。



 そのバランスのせめぎ合いこそが人生なのだ。



 その現実を突きつけながらも、このドラマは諦めではなく、熱と怒りでその不条理を語っている魅力があるのだと思う。










    



           2013年 TBS
| 23:47 | テレビ | comments(0) | trackbacks(0) |
智恵子に捧げた彫刻 〜詩人・高村光太郎の実像〜
 「日曜美術館」を見た。
 生誕130年に当る本年、詩人としてではなく、彫刻家として高村光太郎(1883〜1956)にスポットを当てる展覧会が各地で行われているようだ。

 明治彫刻界の巨人・高村光雲の長男として生まれた光太郎は、早熟な才能にも恵まれ、将来を約束された日本彫刻界のプリンスだった。しかし、東京美術学校・彫刻科在学中、フランスに留学した光太郎は、近代彫刻の父・オーギュスト・ロダンの存在を知り、日本独自の近代彫刻を創造する決意をする。
 帰国した光太郎は先鋭的な活動をスタート。旧態依然とした日本の美術界を徹底的に批判し、どこまでも理想を求める中で孤独を深めていくようになる。

「日本芸術の代表者のような顔をしていた文展のごときも浅薄卑俗な表面技術の勧工場にしか見えなかった」

 とは、辛らつである。
 そんな光太郎を絶望の淵から救い出し、一変させたのが妻・智恵子との出会いだった。自分の作品を熱を持った目で見てくれる、一番初めの鑑賞者として、光太郎は、智恵子を信じ、頼り、救いを感じていく。

           

 私が、高村光雲の老猿に接したのは小学校の時。
 格調高き品のある彫刻に惚れ込んだ私は、光太郎の作品は、どこか未完成な気がして好きになれなかった。
 それよりも、光太郎の「道程」に代表される、

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る

 そんな直接的な物言いに魅かれ、私にとって、光太郎は、詩人でしかなかったように思う。

 近代芸術としての、光太郎の彫刻。
 時代が新しく展開する中で、日本彫刻界のプリンスが、ロダンと出会い、オーセンティックな世襲をではなく、職業を選ぶ義務を果たすことで手に入れた、新しい時代を生きていく人間の姿だという感動。
 十和田湖の乙女の像に代表されるように、光太郎の生き方は「対話的知性」であるという、ゲストの平野啓一郎さんのコメントは、光太郎を考える上で、極めて刺激的なキーワードになりそうだ。

           

 乙女の像をつくる光太郎の姿も紹介された。
 光太郎の手が、彼の代表作「手」と酷似していることに触れ、その「手」こそが、彼の芸術のありよう、厳しい思いの全てではないかという話に至る。
 とても有意義な時間をもらった。
 小学校の時以来、更新も深められてもいないことってあるよなぁと反省する。あれだけ好きだったし、こんなに鮮明に覚えているのに・・・である。

             
| 22:32 | テレビ | comments(0) | trackbacks(0) |
「あまちゃん」 第7週 おらのママに歴史あり 第37話
  お出かけ前の儀式のように、NHKの朝ドラを見ている人は多いと思うが、どうも私は得意ではない。毎日の習慣として物語を追いかけるのが性に合わないと思うのと、やはり「朝にふさわしい」制約、どこか大衆の意見に左右されてストーリーが変わっていくような媚びようが気に入らないのだと漠然と思っている。

 2013年度上半期のNHK朝の連続テレビ小説『あまちゃん』は、宮藤官九郎が脚本を書いているということ、「じぇじぇ」という驚きを表す感嘆詞の多用が可愛いということで随分身の回りで話題になっており、少し気になるドラマだ。
 とはいえ、じっくり朝から見る余裕も無く(もちろんそんなドラマ作りにもなっていないわけで)ちょこちょこと垣間見るにとどまっているわけだが・・・。

 東京で育ったアキが、母の故郷である岩手県北三陸に帰り、海女となる物語。
 アキが、観光の広告塔として地方発信アイドルとして扱われることによって、母の隠していた過去や、人々の思いがあぶりだされる展開になっていくようだ。

 小泉今日子が演じる、主人公の母・春子は、理不尽なことで切れたり感情的になる部分が多く、小泉今日子でなくては、好感度が維持できないと思われるキャラクター。ところが、どうやら、影のある過去があるらしいことが存分に推測され、田舎ゆえの家族との確執、心の傷があって都会にいたであろうことに共感を感じてしまう。
 今日は、蟹江敬三演じる、春子の父の不用意な一言で、春子がアイドルになりたかったことが露見し、アキは同席していた人々に、本当か、知っていたのかと聞いてまわるストーリー。

 そこからの春子の言葉。
 
「いい加減にしなさい! みんな、気遣って黙ってんの、分かんないの!?」

「田舎の人はね、腫れ物に触らないの。うわべだけの優しさと作り笑いでごまかすの。だから、腫れ物の腫れは、いつまでたっても引かないの」

 これほど、田舎というものの闇を言い当てた言葉はないだろう。

 セリフの凄さに、朝から、やはり宮藤官九郎は天才だなぁと感じ入ってしまった。

 それにしても小泉今日子は、いつまでもきれいだなぁと思う。

 


 おまけ・・・我が青春時代の、きょんきょん☆はこちら♪


              
| 22:14 | テレビ | comments(0) | trackbacks(0) |
松本清張スペシャル 霧の旗
 松本清張生誕100年記念  日テレでのスペシャル番組(2010年3月16日放映)

 絵に描いたような成功の道を歩んできたエリート弁護士が、兄の弁護を頼む女の願いを聞き入れなかったことから起こる転落劇。
 どんでもない異常な逆恨みともいえるし、エリート弁護士の素の顔を引き出した単なるきっかけとも思える。その重さと軽さ、判断つきかねるところが、このドラマの不思議な魅力だともいえるだろう。

 冤罪を二度も暴いたことで、エリート弁護士・大塚欽也(市川海老蔵)は、マスコミの寵児となる。そんな時、予約もなしで現れた柳田桐子(相武紗季)という若い女に、兄の弁護をして欲しいと頼まれた。福岡から上京して来たという桐子は、兄が強盗殺人の犯人にされ、死刑になる可能性もあるという。時間的な余裕がない大塚は、優秀な地元の弁護士を紹介すると言うが、桐子は聞き入れず、同郷を理由に懇願したため、その厚かましさをたしなめ、大塚は桐子の依頼を冷たく断わったのだった。
 翌年、大塚は、桐子からの葉書で、無期懲役の判決を受けて控訴審中の兄が獄死したと知る。公判記録などを取り寄せ、大塚は事件を調べ始める。
 兄も、兄の工場も失った桐子は上京し銀座でホステスを始める。
 一方、大塚は、仕事で知り合ったレストラン『みなせ』のオーナー・河野径子(戸田菜穂)と密会を重ねていた。
 二人の関係に気づいた『みなせ』の従業員・杉浦は、かつて関係のあった河野への思いを捨てきれず大塚の不倫を罵倒する。この杉浦は、桐子の店のママのの弟だった。
 杉浦の死、警察から疑われる河野。そして、河野は、事件当日、杉浦の家の前で桐子に会い、桐子が自分の無実を証明してくれると言う。
 
 悪くないドラマだったとは思うが、感情移入するには中途半端な仕上がり。
 大塚側から見るとすれば、
 桐子への罪悪感から、忙しいわが身を労わることなく調書を読み込む姿や、ネットショッピングに現をぬかす妻の姿を黙認する様子、最後、桐子からの法曹界の実力者への嘘の誹謗の手紙を受け入れる様子には、大塚の人間性は読み取れても、ドラマへの説得力には至っていない。
 何よりも、貧しい家から、立身出世した大塚が、「同郷」であることだけを盾に自分の主張を通し、大塚の時間へ食い込んでこようとする姿に何を思ったのかは、 大塚の人物像の肝になるはずにも関わらず、通り一編のものしか伝わってこなかったのは残念だった。
 桐子側から見るとすれば、
 最初、大塚の事務所を訪れた姿から、夜の仕事に変わったときの変容振りは、なかなか良かった。
 しかし、このサイコ的なともいえる大塚への憎しみ、そうならざるを得なかったことは、理屈でしかなく感情移入には至らなかった。
 そもそも、エンディング近くで、大塚は、桐子に陥れられる状況で関係を結ぶ。
 そして、その行為は無理やりであったのだと桐子は、法曹界の実力者へ手紙を書くのだが、そのくだりはドラマ中では蛇足感が拭えない。
 一人の女性の、処女を捨てるという行為が「決意」を表現しなくなったのだと、作り手側の感覚としてあってなお、原作の枠組みをなぞってしまったことの形骸化だろう。
 そのくせ、ことさらに、大塚は家庭内別居があっての不倫だといっているようなシーンも多く、くだらない段取りだとも思った。
 前のものが惰性になっているから、今のものが尊いと言い分けられるほど人間というものの感情は単純ではないだろう。
 どこに何を感じて良いものやらと考え込んでしまう。
 「霧の旗」とは何を意味するのか?
 結局そのことがわからなかったのと同様、面白い物語展開と、思わせぶりな人間心理。さりとて、なにも突き刺さってはこなかったというところだろうか。
 松本清張を現代に焼直せば、なにやら薄っぺらになってしまう。
 それは、ドラマのせいなのか現代の社会性の問題だろうか考え込んでしまった。どちらにしても、残念である。


         生誕100年記念 松本清張ドラマスペシャル 「霧の旗」 [DVD]
              201006発売 日テレ 監督:重光亨彦           
| 23:59 | テレビ | comments(0) | trackbacks(0) |
特捜最前線 「恐怖のテレホン・セックス魔」「さようなら、高杉刑事」
 特捜最前線のDVD  BEST SELECTION Vol.1 の後半。
 
  今回見たのは、
  
第 94話 「恐怖のテレホン・セックス魔」 長坂秀佳・脚本 天野利彦・監督
  第105話 「さようなら、高杉刑事」 長坂秀佳・脚本 天野利彦・監督
  以上、二作品。
 
 第 94話は、エッチないたずら電話がエスカレートし、ノイローゼ気味になっていく妻と、その詳細極まりない電話に夫が、妻の浮気を疑い家庭崩壊の危機が訪れる中、知り合いの船村刑事に相談が持ち込まれる話。
 1979年当時、電話の数482万台、普及率60%、嫌がらせ電話の数12万件。女性10人中8人が嫌がらせ電話の被害を受けていたとのこと。この社会現象に、夜10時から放映されていて、大人の刑事ドラマであった利点を最大限に活かし、真っ向から取り組んだ作品だと言えよう。
 相談を受けた、船村刑事はいたずら電話を受けている主婦宅を訪れ、電話をかけてきた犯人に一喝を浴びせる。しかし、この一言はかえって犯行をエスカレートさせることに。
 猫の死骸、葬式の花輪のいたずら注文。
 今ならストーカー被害と言うべきだろう。
 事件の大小は関係ないと言い切る船村刑事と、それに共感し船村と行動をともにする特捜課のメンバーたち。そこに神代警視正の姿が無いことにもリアリティがある。
 犯人役には、西田健。特捜最前線を象徴するような犯人像を演じさせれば、右に出るものはいない存在である。「はあ… はあ… 奥さん…いまどんなかっこしてるの…・? オレ今裸なんだよ…」なんて言っていても、知性と、自己顕示欲を感じて、不思議に性的な雰囲気がしないのは、西田の持つ魅力と、長坂脚本の清潔感の賜物であろうと思う。
 船村の恫喝の声を録音して、さらにその主婦に嫌がらせをするなど、西田健演じる美容師・森浦の美しき変態っぷり、船村刑事宅の少し前時代的な夫婦愛は感動的ですらある。まさしく、長坂秀佳脚本の独壇場である。
 しかし、女性なれしている職業であるはずの森浦が、女性に抱く感情や、その主婦への固執については、納得いくエピソードはなく、最後、面白いことをするといって、ノイローゼの主婦を逮捕の危険をおかしてまで呼び出してしたかったことは伝わってこず、逮捕劇への展開はものたりなかった。
 結局、時代のモンスターのように仕上げてしまうことが、長坂の弱点でもあるわけだが、久々に見て、知性を狡猾にしか使用できない異常な男の魅力を堪能させてもらった。

 題105話は、西田敏行演じる、高杉陽三刑事の最終話。長坂のキザな物語展開がビシャリと決まって印象深い。
 高杉は、結婚式の帰り、幼い顔に商売女のような濃い化粧をした少女・ゆか(森下愛子)に出会う。
自分は母親を殺したと供述するゆか。ゆかの無実を信じる高杉刑事は、栄転話がフイになるかもしれないリスクを引き受け、無実を証明するために奔走する。
 母を尊敬している。そんな言葉とは裏腹に、どこか影を抱える少女。ブルジョア家庭に潜む知的な冷たさの中で少女は生きている、そして、ガラスのような少女を守っている何かは危ういものだ。
 その少女の存在を、高杉は、生活感と人情味に溢れた大きなエネルギーで守ろうと一生懸命になる。その対比が面白い。
 少女が、「なぜ私をかまうの!」 と、高杉に真っ直ぐぶつける気持ちと、「高杉さんの奥さんはどんなひとかしら」という呟きにはリアリティがあった。
 密輸ダイヤの運び人に利用された母。その黒幕は誰なのか? 謎が解き明かされる中で、少女は、高杉の真っ直ぐな姿に魅かれていく。
 最後、少女は父の仕事についてパリに行く。
 特命課への感謝の気持ちと、好きになってはいけない人を好きになったからということを書いた手紙を残して。
 この辺りの、少女の聖俗のバランスの悪さを一層の魅力として示す捕らえ方は、長坂得意の展開だ。高杉陽三に恋はしないだろうと思いつつも、その陽性に、危なげなく思いを受け止めてもらえる安定を感じる。

 長坂秀佳の脚本は、荒いところも、ムチャなところも含めて、あぁ、やっぱり好きだなと思う二作だった。
| 19:18 | テレビ | comments(0) | trackbacks(0) |
特捜最前線 「愛の十字架」「愛・弾丸・哀」 
  特捜最前線のDVDを購入した。
 
  特捜最前線では、橘警部役で活躍された、本郷功次郎さんの訃報も飛び込んでくる中、橘警部の活躍する作品を探してみようとも思ったのだが、DVDの順番通りに見ることにする。
  BEST SELECTION Vol.1 ファンの人気投票で決まったセレクションとのことだ。
  1枚のDVDに4作品が収録されているのだが、なかなか全部一気に見ることは難しいので小分けにしてレビューしていきたいと思う。
  今回見たのは、
  第 1話 「愛の十字架」 宗方寿郎・脚本 永野靖忠・監督
  第13話 「愛・弾丸・哀」 館野彰・佐藤肇・脚本 佐藤肇・監督
  以上、二作品。
  脚本家名に、記憶がなく、最初のメンバーは見知ったものではなかったのだなぁと思ったのだが、宗方寿郎は石松愛弘で、舘野彰は塙五郎の別名だとのことで、そのことすら草創期な感じがして、少し嬉しかった。

 第 1話は、神代警視生(二谷英明)が尊敬し、刑事としての基本を教えてもらった、先輩刑事(中村竹弥)の暴力団との癒着疑惑を追う物語だ。はみ出し刑事でもない、超エリートでもない刑事たちが、組織にきっちりはまりながら、愛と責任と、人情をもって職務を全うしていく姿が描かれている。
 正直、刑事ドラマのあり方への挑戦は感じるものの、物語としてのできは良いとは言えない。
 しかし、特捜最前線の輝ける第 1話ということでの選抜であろう。

 第13話、こちらは、特捜好きには、肌に馴染んだイメージを持つ物語。この辺りから、あの、特捜最前線の方向性が決定付けられたということだろうか。
 特捜最前線の刑事たちは、濃いけれど地味である。
 だからかどうか、リアルタイムで見ていたとき、多感な年頃だった私は、この刑事たちに憧れたり共感することはなく、どちらかといえば、犯人側に自分をシンクロさせることが多く、犯人たちの生き様に人間の深遠さを見たものだった。
 今回、そこまでのミエはきれていないが、誘拐犯役の石橋蓮司の存在が本当に良い。
 この犯罪者像こそ、特捜最前線と言って過言ではないだろう。
 銀行強盗犯の逮捕を巡り、犯人の母親がいる中で、桜井哲夫警部(藤岡弘)は、津上明巡査長(荒木しげる)を庇い発砲する。その弾丸が、結果、犯人の命を奪い、狂乱した母親は、津上をなじる。
 津上は、苦しみながら死んでいく若い犯人と、強く刑事側を責める母親の気持ちを受け止め、桜井を非難し、自分をも責めるのであった。
 しかし、銀行強盗が奪った3000万円が特捜課にあると知った沖本(石橋蓮司)は、津上の妹を拉致し、身代金の要求を企てる。
 そこからは、受け渡しを巡っての攻防があり、高杉巡査部長(西田敏行)が凶弾に倒れ、特捜メンバーは、沖本を追い詰める。
 津上の妹・トモ子に銃を突きつける沖本。沖本に銃口を向けたまま固まる津上。
 追い詰められた沖本はトモ子を放し撃とうとする。その瞬間、津上は止めろといって発砲する。
 倒れる沖本、発砲した事に驚き放心状態の津上に、船村(大滝秀治)が、
「俺だ、俺だ。そんな腕じゃ落第だ」
と、叫ぶ。
 事切れている沖本。震えるばかりのトモ子。唖然としたままの津上。
 そして、ドラマは終わる。
 この終わり方が、特捜最前線だ。
 久々の、この感覚。不条理な社会を生きねばならない自分自身の存在が愛おしくなるのを感じた。
| 23:56 | テレビ | comments(0) | trackbacks(0) |
プロフェッショナル仕事の流儀 イチロースペシャル2012

 昨年末NHKで放映されたものの再放送だったらしい。
 何気なく見始めたが、とても良い番組だった。
 三連休、ブログ更新をしないつもりだったけれど、覚書に掲載しておく。

 10年間在籍したシアトル・マリナーズから、ニューヨーク・ヤンキースに移籍し、自分らしい活躍をモノにするまでのドキュメンタリー、240日にわたるイチローという一流アスリートの心の軌跡を扱った番組である。

 イチローは昨シーズン、かつて経験がない深刻な不振に陥った。10年連続で達成してきた年間200本安打もオールスター出場もゴールドグラブもすべて失った。不振は今シーズンも続き、メディアからは年齢的な衰えを指摘する声も相次いだ。
 これは、番組宣伝からの抜粋。

 私にとって、イチローは、常日頃から関心のあるアスリートではない。理由は簡単、職人に尊敬は感じても、私が愛するのは芸術であるからだ。
 凡たるとて人は皆100の能力を持つ。しかし、凡人が凡たる所以は、その100の中の、80を発揮するかしないかで人生を終えるからである。そして、人が100しか持たぬものを、120を持っている人間に、私は興味を持つ。だけど、120の能力を、常時120発揮できる人間は、少し嫌味ではないか? その僧侶のように、環境をはじめとする雑菌に影響されない姿は、面白みに欠け、魅力的とは言えないのではないか? そんな持論がある。
 120の能力がありながら、時折80にまでブレル人間は、不思議と150のアベレージをたたき出すことがある。この150に出会えた瞬間がたまらない。
 しかし、これは私の、躁鬱肯定の芸術的感覚なのであって、アスリートに当てはまるものではないのかもしれないとも思う。寿命が短いアスリートにとって、一回の80評価は命取りだ。だけど、好みは好みであるから、これが、私の関心からアスリートと呼ばれる人たちが外れる原因なのだろうとも思う。

 120の能力を持ち、常時120の力を発揮できるイチローというアスリート。

 そんな男にもスランプはある。アスリートが、年齢を取り沙汰され始める時、それはアスリートとしての終演か近づいている時である。
 ヤンキースにうつってからも、イチローの不振は続いた。
 通常スランプに陥ったバッターは狙い球を絞り、甘い球を待つのがセオリーだ。だがイチローは、かつて「魔法の杖」と呼ばれた、イチローらしい「攻めるバッティング」を貫き、相手投手の決め球に真っ向勝負を挑み続ける。
 自らのバッティングについて、イチローは語る。
「瞬間的に結果を出すために、自分が信じているものを崩してしまうということは、自分の生き方も否定してしまうということ。結果を出すためにいろんなことをしますが、姿勢というものが変わってしまうと、自分がバッターボックスに立つ意味はない。これは生き方に通じるものなんです」。
 ちょっと、グッときてしまった。
 イチローの言葉は、無難に逃げない。
 自分の言葉を持っている人間というのは魅力的なものだ。
 
 一流の職人が生み出すものは、機能美を具えた一流の芸術。
 イチローの存在は、そんな当たり前のことを、実感をもって私に突きつけてきた。

                            

 どんな結果に対しても、僕はそれを受け入れる。失敗したときの自分の立場が怖いからといって、変な理由づけはしません。だから僕の発している言葉に嘘はないはずです。

 これは番組中の言葉ではなく、有名なイチローの言葉だけど・・・ここまでストイックになられると憧れの目で見るしかない。そして、誰だって、そんな風に言ってみたいと、嘘吐きの私は思う・・・・。

| 10:06 | テレビ | comments(0) | trackbacks(0) |
果てしなく美しい日本 ドナルド・キーン×平野啓一郎スペシャル対談

新春ドナルド・キーンアンコールスペシャル
果てしなく美しい日本 ドナルド・キーン×平野啓一郎スペシャル対談

「永遠に残るもの、それは言葉」「日本人の美意識の本質」「日本の地理的風土が生み出す日本人の精神性の美しさ」「果てしなく美しい日本 今、日本人に伝えたいメッセージ」など、なんとも魅力的なキーワードが散りばめられている対談が再放送された。 (初回放送 2011年10月16日)

     

 中でも、松尾芭蕉の有名な俳句を、音から読み解くキーンさんの言葉はとても興味深かった。

☆「夏草や兵どもが夢の跡」の「お」という音の多用

ローマ字で書いてみるとよくわかる
natsukusaya tsuwamonodomoga yamenoato」と「o」が繰り返し使われている。
母音の中で「o」は一番低く、悲しみを感じさせる音だとキーンさんは言う。

そこで平野さんが、エドガー・アラン・ポーも『大鴉』でも、くり返しでてくる「Nevermore」の「オー」の音が大切だとポーが言っていたという話をされた。

☆「閑さや岩にしみ入る蝉の声


こちらもローマ字で書いてみると
shizukesaya iwanisimiiru seminokoe」と「」の多用に気づくだろう。
蝉のジージーという鳴き声に響かせていると考えられる。

 どこか、短詩系は、語呂が良くてあたりまえ的な先入観があって、逆に、そこに意味とかイメージとかを求める発想はなかったなぁと反省しきりである。

桜が日本人の美意識と深くつながり、桜は日本人の心を騒がす話になった時紹介されたのが、伊勢物語の歌。

「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」 在原業平

(この世の中に全く桜というものが無かったならば、春を過ごす心はのどかであったろうよ。)という意味らしい・・・。
それに対する返歌は、「散ればこそ」ですものねと二人は笑う。


言葉とは、深い知識に裏打ちされてこそ美しいということか。

 
| 23:14 | テレビ | comments(2) | trackbacks(0) |
NHK日曜美術館 エル・グレコ 神秘か理性か 天才画家の見たものは
  平野啓一郎さんがゲストとのことで、久々に、日曜美術館を見た。

           
            エル・グレコ 無原罪の御宿り 1608-13

 『無原罪の御宿り』とは、「聖母マリア自身が、情欲の交わりという汚れを知ることなく生まれた」という言い伝えを描いたもので、多くの画家が挑んだ題材だ。
  エル・グレコの作品は、横1.8mに対し縦は3.5mと極端に縦長な構図の中に、聖母マリアと彼女を取り囲む楽器を持った天使たちの姿が描かれている。計算され鮮やかな色彩の配分と描写力。まさにエル・グレコの最高傑作である。

 しかし、真正面からよく見る、この絵が奇妙なことに気づくだろう。人物は長く引き延ばされ、およそ10頭身はあり、足は長い。体は不自然によじれている。人体の構造を無視したこの絵が当時の美意識かと思いきやそうではないようだ。

 この絵はまず遠目に、絵がある部屋に入って来た時の印象と、近づいて見上げるように見た時の印象が全然違う。
 つまり、下から見上げた時、この絵は上下に縮み横に広がって見える。
 見上げたマリア様の顔は、ふっくらと優しげになるわけである。

 極めて計算された構図と、視線との関係。
 「見上げる」という行動が当たり前である、教会という場所あっての絵画なのだという話を興味深く知ることになった。

 下記はNHKの番組宣伝のエル・グレコの説明

 エル・グレコ(本名ドメニコス・テオトコプーロス)が誕生したのはギリシャのクレタ島。イタリアで油彩画の技法を習得し、30代半ばでスペイン・トレドに移り大成。ギリシャ人を意味する「エル・グレコ」と呼ばれた。そのエル・グレコが最も才能を発揮したのが宗教画である。赤・青・緑・黄という宝石のように輝く色彩の衣をまとったキリストや聖人たち。人物はどれもくねるように細長く引き延ばされ、潤んだ瞳で甘美な表情をたたえている。宗教的情熱と深い精神性をたたえた作品は宗教画に革命を起こし、没後もピカソをはじめとする画家たちに多大な影響を与えることになる。

 ピカソが青の時代に受けた影響についての平野啓一郎さんの話はもっとまとめて聞きたい思いだった。
 現在日本でも「エル・グレコ展」が開催されているらしいが、どうもいつも、会場がひどく混んでいて食指が動かない。背伸びして、押し合いへしあい絵画を見ても豊かな気持ちにならないなぁって思ってしまう。そんなことを言ってないで、うまく平日にでもあわせて、本物をみないといけないなぁと反省である。
| 14:11 | テレビ | comments(0) | trackbacks(0) |
特捜最前線 昭和60年夏・老刑事船村一平退職!
 劇団民芸代表であり、昭和から平成にかけての演劇史を彩った大滝秀治さん(享年87)が亡くなった。(2012年10月2日)
 長い芸暦のなかで、いろいろな人が、いろいろな、舞台、映画、ドラマを大滝さんの代表作というだろうが、私にとっては、「特捜最前線」のおやっさん・船村一平である。

 当時、舞台役者特有の濃い演技にアテられ気味で、けしてファンではなかったのだが、特捜最前線にはなくてはならない人だった。おやっさんの主役の回は、今日は地味な物語だと、自分の想像に勝手にがっかりしていたくせに、おやっさんの退職は、大切な何かがもぎ取られるようで残念だったことを覚えている。

 今回、追悼の気持ちで、『昭和60年夏・老刑事船村一平退職!』を手に取る。
                          (
脚本 塙五郎 監督 天野利彦)

 昭和60年夏、老刑事船村一平は、心臓の不調が深刻化していることを悟りながら目を背けている。そして、訪れた、30年前に初めて犯人を逮捕した思い出の坂。かつてなら、何の苦もなく駆け上がっていたでであろう、名も知らぬ坂の中途で息が切れてしまう自分に気づいた時、船村は、自分に幕引きの瞬間が近づいていることを知る。
 小学校で宿直の用務員が殺害され、続いて屋台のおでん屋の老人が殺され、同一犯人だと判明。事件前夜、おでん屋は巡回の警官にあった時、犯人だと思われる男と一緒で、その男は、城西署の船村刑事だと名乗っていたのだ。
 城西署は、30年前、船村が勤めていた部署だった。

 小学校で殺人事件で、第一発見者である女教師は、警察に通報せず、まず校長に連絡していた。その理由を追求された、彼女はただ「怖くて・・・」と答える。犯人は返り血を浴びているはずで、その着衣が、どう始末されたのかがわからない。

 30年前、船村が解決したはずの事件の真相は? 
 死んだ女が、告白したという自分が犯人だと言う言葉と、誤認逮捕かもしれない事実には触れず、その女にただ逢いたいという執着だけを目に滲ませる殺人犯。

「私がこの凶悪な男にしてやれることは、この男にも哀しい心があると信じることと、手錠を打つことだけ。30年間私のやってきたことは、結局、そういうことです・・・」

こうして、船村の刑事生活は終わりを告げる。

 その是非も、それぞれの人生も、ただ受け止めて、坂がある。
 最後、船村と、課長の神代警視正(二谷英明)が、共に、坂を歩いてのぼり、振り返るエンディングは逸品である。

「私が30年の刑事生活の中で分かったことは、たったひとつだ。
それは、人間っていうのはねぇ、
ずるくて、汚くて、
あさましくて、いやしくて、嘘つきで、恐ろしくて、
そして、弱くて、悲しいものだってことだ」

二谷英明さんに続いて、(参照 
http://yukareview.jugem.jp/?eid=114) 大滝秀治さんの訃報・・・寂しい限り。 心からご冥福を祈ります。

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