ぜひぜひ読んでほしい本のショートreviewをUPします!
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100年後も読まれる名作(7) 赤毛のアン

 もし、この本のマーケットである小学生の時に、私が出会っていたら、抄訳で読まねばならない本を、今読む必要はないと思うから、読めるようになったら、この本ではなく全文を読むと答えていたかもしれないと思う。

 抄訳などという言葉を使いたがる子どもは、「赤毛のアン」という匂いに魅かれるはずもなく、私が「赤毛のアン」シリーズを手にしたのは高校生の時。ずいぶん遅いデビューであった。

 面白いものだと感じたのが素直な感想ではあるが、面白がる自分が恥ずかしく、肯定的な感想をいうことがはばかられた。

 ベラベラと自分の内面をぶちまけ、コンプレックスを持っているとわめきながら、保護者に愛され、無条件に自分を受け入れてくれる同年代が近くにいる夢見がちな少女の存在は、どこか疎ましかった。

 

 この本の編訳を担当した、宮下恵茉さんは、小学校で「赤毛のアン」に出会い、夢中になったのだと、あとがきにある。

 面白いほど、私と、正反対の反応。

 

 そして、読書の面白さというものは、

 ひねくれて距離をとった本とも、振り返れば良き思い出があり、

 その同じ本に魅かれたという人物が紡ぐ物語に、ひねくれ者がひどく魅かれたりすることかもしれない。

 

 作家・宮下恵茉への信頼と興味がなければ、私は今更、抄訳などいうものを手に取らなかったかもしれないし、読むこともなかっただろう。

 

 良くできた、抄訳である。名場面と要所は逃さず、しかも読みやすく、面白くである。

 アンが、マシューとマリラの日常を、外部者の目で夢のような言葉で飾ることから始まる冒頭から、居場所を求め続け、この地に根を下ろし「夢のかたちがほんのちょっとかわった」と神の目を感じるラストまで一気に読者を運んでいく。

 ダイアナもギルバートも生き生きとしていて、アボンリー、グリーン・ゲイブルズといった言葉の響きに感じる不思議な憧憬も良く描かれている。

 

 大人になって抄訳を読むのも悪くない。

 自分とその本の距離、そして抄訳をした作家への興味。

 久々に、「赤毛のアン」が読みたくなった。

 

 この本を手に取った子どもたちは、「赤毛のアン」とどう出会い、どう付き合って大人になっていくのか。

 そして、振り返れば、すべて良き思い出。

 それが、名作と呼ばれる本の底力なのかもしれない。

 

 

 

                                     

                      書籍データ L・M・モンゴメリ 作 宮下恵茉 編訳 KADOKAWA 201801

| 23:18 | 児童文学 | comments(0) | trackbacks(0) |
聴導犬こんちゃんがくれた勇気 難病のパートナーをささえて

 聴導犬という存在はしっていたつもりだけれど、どこかイメージが盲導犬と混同していたのだろう。まさか、シーズーのような小型犬が、そんな役割を担っているとは全く知らなかった。

 ペットと間違われ、入店拒否をされるくだりがあるが、悪意のない勘違いや戸惑いが、苦労を抱える人にとって一番の敵なのかもしれないとさえ思う。

 この本は、そんな聴導犬のこんちゃんと、耳が聞こえなくなってしまった仁美さんの二人三脚の生活の物語だ。

 こんちゃんが聴導犬になるまでの道のりと、日本聴導犬協会の役割が丁寧に描かれる。また、くりくりおめめの可愛い写真と、どこかおどけたような一人称の語りは、こんちゃんのまっすぐで人懐っこい性格を手触りのように感じることができる。介助を受けるはずの仁美さんも、介助犬と出会うために、共に生活するためにこんなに訓練と努力をしている事実を、小さな子どもでも、軽妙なタッチで知ることができるように描かれている。

 「こんちゃん」は、可愛い名前だという感想は誰でも持つのだろうと思うが、耳の聞こえない人でも発音しやすい名前なのだそうだ。そんなたわいない知識の積み重ねこそが、真の理解への近道なのだとも思う。

 聴導犬には見えないこんちゃんと、耳が聞こえない障害を持っているとは外見からは想像もできない仁美さん。

 一番素敵だなと思うのは、こんちゃんは聴導犬に適した資質を持った犬だが、けして、パーフェクトで特別なエリート犬ではないというところだ。あごの骨が弱く、何度かの手術を乗り越えて、聴導犬に成長していく。資質を最大限に活かし、認められ、困難を乗り越える時間を誰かに待っていてもらうというのはなんて幸せなことだろうとこんちゃんの姿を見て思う。

 小さな知識と、小さな幸せを積み重ね、人生には光がさす。そんなことを考えさせてくれる本。

 子どもたちはもちろん、大人にも是非手に取ってもらいたい作品である。

 

 

 

         

         書籍データ 盒兇Δ蕕蕁〆遏ヾ篋蟒馘后201810 

| 23:40 | 児童文学 | comments(0) | trackbacks(0) |
ぼくのネコがロボットになった

 ポロがいなくなるかもしれない。飼い猫の死に際に直面し、ぼくは、学校を休むほど何も手につかない。

 とうさんは、ポロの心のデータを開発中のネコ型ロボットに移しよみがえらせることができると言った。

 よみがえったネコと、ぼくが、リアルネコ時代の、思い込みと思い入れを乗り越え、ロボットネコと再び友情を育てる物語。

 永遠の命を得ることは本当にいいことなのか? いやいや、命は限りあるからこそいいなんて、愛するものを目の前に言えるセリフなのか? 読者の心は何度も揺らされながら、もう一度出会えた幸せの先の、やっぱり再び来るであろう別れを予感する。

 そして、動物と人間の、お互いに感じていたことが、はっきりと言葉になった時、そのシーンが全く違うニュアンスであったこと突きつけられる。はっきり知らなくたって、ふんわり慮っていた方がうまくいくことってあるじゃない? すべて理解し伝え合うことは本当にいい事なのか? 

 ロボットになったって、それは心に着るものがかわっただけで、変わらないってことではないの?

 コミュニケーション能力をみにつけましょう。大切なのは心です。スローガンのように唱えられる、教育上獲得が求められる到達点に、作者は、ことごとく疑問を投げかける。

 それでも、うまくいかないのが、人と向き合うってことじゃないの?

 心が同じなら何も変わらないのか? すべて言葉にできることはいい事なのか? 死なないことをどう受け止めればいいのか? これらの問いに明確な答えはない。

 ひとつだけ確かなことがあるとすれば、ポロはぼくが、ぼくはポロが大好きだってことだけだ。

 この本は、文明批判でも、そうなればいいなというファンタジーでもない。

 愛するネコとぼくの漂泊の物語だ。

 二人(ひとりと一匹?)は、傷つき、考え、そして、オリジナルの解決法を見つけようと必死にあがく。

 それは、ロボットとしての体の改善が可能であるという希望を持った、人間の言葉を話そうと、不死身であろうと、けっして自分の存在を否定することのない立場からの、友情の発見なのである。

 

 

                      

              書籍データ 佐藤まどか 作 木村いこ 絵 講談社 201801

| 19:58 | 児童文学 | comments(0) | trackbacks(0) |
みちのく妖怪ツアー

 子どもは怖い話好きだからね〜 などという気持ちで手にとってはいけない本である。

 地続きに異界がある楽しみと、知的なブラックユーモアと、得体のしれない情念と一体化した塊と、それが生活の中にある土着的な怖さ。あぁ、それが妖怪を生み、見せるのだと、自分の中にある緩みや凝りが炙りだされる。

 東北に居を構える3人の作家の連作短編。「みちのく妖怪ツアー」に参加した、少年少女たちの物語。彼らは、妖怪に出会い、その世界へ飲み込まれていく。

 連作短編なのだが、表題には作者は記されない。文末で、作者を知ることになるわけだが、これがなかなかピタリと当たる。怪談話は形骸化された中に放り込んでこその怖さだとも思うのだが、そこに作家の個性をしっかり魅せるとは、只者ではないアンソロジーである。

 時事問題やニュースもも盛り込みながら、妖怪は、古き良き想像力ではなく、今、生きている人間の足元にうごめくものだということを描いている。そして、最後の話は、ちょっぴり今どきのファンタジーテイスト。そう、そういうファンタジーを好む読者が、「早く見つかってほしい」という言葉に共感しているその瞬間も、ほっとしていいのか、それとも、全く片付いていない、見つからなかった子どもたちの気配に怯えるしかないのか。なかなかどうしての素晴らしい構成である。 

 

 

                     

           書籍データ 佐々木ひとみ・野泉マヤ・堀米薫 作 東京モノノケ 絵

                       新日本出版社 201808

| 23:12 | 児童文学 | comments(0) | trackbacks(0) |
SHUTO ダンサー首藤康之の世界

 「振付は二人でするものだ、恋と同じく。他者の身体という迷路を通って、私は形でありリズムであり、感情であり感動である、私自身の思考の歩みを見いだす」  モーリス・ベジャール

 

 私にとって、首藤康之は、東京バレエ団のベジャールダンサーというイメージのまま止まってしまっていた。

 ところが最近、TBSドラマ 99.9−刑事専門弁護士− で松本潤演じる深山の亡くなった父親というフラッシュバック気味のある種幾何学模様のような存在で見かけ、直感で見に行った舞台、長塚圭史作・演出【かがみのかなたはたなかのなかに】でも拝見することになり・・・ふと、首藤康之のその後に興味を持った。

 

 小学校五年生で単身ニューヨークに渡ったという、ミュージカルが好きで、舞台が好きで仕方なかった首藤少年の、恵まれているという言葉では表現しきれない一途で純粋な人生を知ることができる本だ。

 

 ダンサーへのインタビューは面白いものだと思う。

 彼らは、音楽を独特の経験として語る。それは、普遍的でありながら、ダンサーとしての体験であり、感性でも理屈でもない不思議な言葉が紡ぎだされる。                                

 

 

 

                             

 

                                                書籍データ ダンスマガジン 編 新書館 201201

| 19:08 | 一般書 | comments(0) | trackbacks(0) |
熊川哲也 Kバレエ カンパニー 「クレオパトラ」 in Cinema

 熊川哲也が主宰するKバレエカンパニーによる公演を映像化し、映画館で上映する「熊川哲也 Kバレエ カンパニー in Cinema」

 全幕オリジナルの作品として、2017年10月に上演された「クレオパトラ」の舞台を収録。全2幕5場

 

 舞台を映像で見るのは、どこか苦手だ。視線が固定されるということはこんなに窮屈なものなのだろうかとベストロケーションであるはずの映像を見ながら思う。

 今回特に窮屈さを感じたのは、画面から飛び出んばかりのアップ画像が多く、もう少し引いてバレエを楽しませてくれという思いが沸いてきたからだ。

 しかし、おかげで、Kバレエカンパニーのダンサーの顔は覚えられたということになるのかもしれないし、映画で観る層というマーケットを考えれば、ライブの舞台とは異なる見方をするということも含め、迫力を重視した映画的手法ともいえる映像は、ありなのかもしれないと思う。舞台と映画、補完か、はたまた別物と評価すべきか、役割という言葉が、頭にちらついてどうもうまく気持ちがまとまらない。

 中村祥子(クレオパトラ) 山本雅也(プトレマイオス)スチュアート・キャシディ(カエサル) 宮尾俊太郎(アントニウス)といった出演者。本公演では、複数のキャストであったはずだから、これがベストキャストなのだろう。

 

 時代背景のテロップが文字として流れる。そのことが、人に物語を求めさせすぎるのかもしれないと思う。だからこそ、未消化な部分が気持ちに残る。もしかしたら、普通に、バレエとして見たのであれば、それはそれで良いのかもしれないのにも関わらずだ。

 

 どうも歯切れが悪くなるのは、自分の中で、このもやもやした気持ちの原因が突き止められないからかもしれない。

 

 私が確信を持って言えることは、舞台セットの美しさ、衣裳のきらびやかさ、そしてラスト5分の音楽と人々の動き、感情の在り様、それだけで、この舞台は価値があるということだ。

 

 では、きっちり着地させてくれたはずの舞台の何が不満なのだと聞かれたら、私には、クレオパトラの魅力が腑に落ちなかったのだというしかない。私は、誘惑する女、愛を迷う女という主題はとても好きだ。だからこそと続ければいいのか、にもかかわらずと続ければいいのか接続詞に迷うが、迷いや孤独を感じるには至らず、権力にものをいわせたセクハラか、自堕落な権力者同士の逢瀬にしか思えなかった。歴史の荒波の中にうごめいた人の心の闇と光、女性の抗えない業が、美にまで昇華していないのだと思う。

 性を暗喩させる踊りのバリエーションは豊かでなかなか面白いし、山本雅也演じるプトレマイオスは良かった。どうしょうもないくらい男の子で、あれではクレオパトラが男に走りたくなるのがわかるし、殺されてしまう説得力を持っていた。

 

 黄金の傾斜の前にクレオパトラが座り込む場面、大きな階段の使い方は、憎らしいくらい美しく、一服の絵のようだった。

 構図としては、時の流れの大きさと世界観、そして一人の女の孤独は描かれているのだと思う。

 そして、そこから、怒涛のラスト5分に流れ込む演出だ。

 

                                                       

 

 ライブの舞台で見たら感想は変わるだろうか。なんだか、見たいような。いやいや、きっとこれは、クレオパトラが、圧巻の美しさと妖艶さで、悲しくも美しい恋と野望と、そして孤独を、身につまされるような説得力で演じてくれない限り、どこまでいっても私には響かないだろう。

 人の評価を信じ切るつもりはないが、クレオパトラを演じたのは評判の良いダンサーのようだ。今、これが限界なのだとしたら、これは、これで終わって良いような複雑な気持ちである。

 

                        

                                                             201801 日本 芸術監督・熊川哲也

| 00:45 | 映画 | comments(0) | trackbacks(0) |
花戦さ

  舞台は、戦国時代末期、京都・頂法寺六角堂。池坊専好の人生を描く。

 子どものように無邪気で好奇心にあふれた池坊専好は、信長の心を奪い、秀吉に生かしておきたいと思わせ、利休からも特別な人として目された人物。

 「花戦さ」という題は逸品だし、スクリーンの大画面で、素晴らしき「生け花」を魅せる趣向は新しく素晴らしかった。

 役者も、野村萬斎(池坊専好) 市川猿之助(秀吉) 佐々木蔵之介(前田利家) 佐藤浩市(利休)と申し分ない。

 誰もが好きな時代を、期待を煽る布陣が演じるのだ。面白くないはずがないと言いたいところなのだが、そうもいかないというのが現実というものらしい。

 秀吉と利休の確執、秀吉と確執のあった絵師の落としだねでもあり、野性的な天才少女・れんの絵と存在に、専好が感じたものはいったいなんだったのか、それぞれの人物像は見事にくっきりとしているにも関わらず、関係性がまったく迫ってこず、結局誰にも感情移入できなかった。

 それに、最後、専好が秀吉に仕掛けた一世一代の「花戦さ」。べらべら主題と現状をしゃべっちゃうあの感じは、最近のドラマや映画の傾向として、やっぱり好きになれない部分である。

 あえていうなら、その声が、佐々木蔵之介の落ち着いた声だったことが唯一の救いというところだろうか。

 

                                                        

                                                           東映 2017年6月 監督 篠原哲雄

| 11:42 | DVDなど | comments(0) | trackbacks(0) |
黄いろのトマト

博物館の大きなガラスの戸棚にいる4匹の剥製の雀蜂が語るペムペルとネリの物語。

色彩豊かな宮沢賢治の文章に、降矢ななが言葉に負けない美しい絵で応え、世界を広げている。

黄金のような黄いろのトマトとサーカスの群像、夢心地の物語が一転、日常に汚される瞬間が見事に描かれている。

 

              

           書籍データ 宮沢賢治 作 降矢なな 絵 三起商行  2013

| 19:12 | 絵本 | comments(0) | trackbacks(0) |
ヴェニスの商人

蜷川幸雄演出によるシェイクスピア劇『ヴェニスの商人』である。

シェイクスピアが活躍したルネサンス期のイギリス演劇にならって、全ての役柄を男性が演じる。女を男優が演じ、劇中で、その女が男を演じるという倒錯的な趣向を面白く見た。

 

ヴェニスで高利貸しを営むシャイロックを市川猿之助が演じている訳だが、上演当時猿之助は37歳。その年齢で、この深みを出されてしまっては、年齢を重ねて人生経験で演じるなんていう言葉が虚しくさえ思える。

現在の価値観では、喜劇として描かれたこの物語が、一人の老人の悲劇であることは社会通念として常識化しているわけだが、猿之助は、情に訴えることなく抑制のきいた演技で悲喜劇併せ持った人間の苦悩を苦悩として描いている。その抑制に文学が香り立つあたりがなんとも憎らしい。

        

 

 

                                              

                                       演出 蜷川幸雄 2013年 埼玉・彩の国さいたま芸術劇場大ホール

| 19:02 | DVDなど | comments(0) | trackbacks(0) |
「若者と死」「Being a Dancer」

 久々に、熊川哲也。

 熊川哲也Kバレエカンパニーの公演「クレオパトラ」の公演は、気がついたら終わってて、来年一月に映画として上映される。全国のイオンシネマで必ずやるようで、田舎暮らしには有り難い朗報だった。

 気がついたら終わっててという発言通り、あまり能動的なファンではない。

 しかし、凄い人として脳内にインプットされている熊川哲也は、時々、風を起こし、振り返れば、点、点と記憶を残してくれている。

 最近では、2013年フランシス・ベーコン展での、音声ガイドナビゲーターかな。

 興味深い言い回しと話で、美術館で鉛筆かりて、必死にメモするなんてあんまりない経験。

 

 映画の見に行こうと思いながらスケジュール確認していて、ふと思いついたDVD検索。

 どうしても見たかった演目が、熊川哲也で見れることを知る。

 そんなに私、バレエから遠ざかっていたのかと愕然とした瞬間でもある。

 

 「若者と死」 ジャン・コクトーの台本を、ローラン・プティが振付。バッハの「パッサカリアとフーガ」にのせて、若者と、支配的な女、翻弄、非常な仕打ち、そして死しかない結末。写真でしか見たことがない世界がそこにあり、なるほどこういうものだったのかと思った。20分弱の映像だが、コクトーの世界観が堪能でき、素晴らしいダンサーにしか踊ってほしくないというプティの思いがあふれている。初演が1946年。プティが当時22歳であったことも驚きだが、コクトーファンとしては、コクトーとバレエの幸福な出会いを感じずにはいられない。歴史ある作品であるわけだが、今見ても前衛的だと感じる。

 

 「Being a Dancer」 こちらは、舞台はロンドン、ロイヤルバレエ時代の熊川哲也の日常と、それまでの軌跡が収録されているDVD。部分的にではあるが「白鳥の湖」「海賊」「ドン・キホーテ」「ジゼル」を楽しむことができる。

 見たかったのは「バラの精」だ。バラの精と言えば、ニジンスキー。フィルムの残らないニジンスキーの名作を、熊川哲也で見れるとは、それだけでなにやら気持ちが動く。フランスの詩人テオフィル・ゴーティエの「わたしは薔薇の精、昨晩の舞踏会にあなたが連れていってくれた」の詩をもとにつくられたということ。1911年が初演。

 熊川哲也はかっこいい。

 そんなことを思いながら、あの当時、素直にかっこいいと言えなかった自分をも愛おしくなる。

 

 

               

                        若者と死(2007年)

 

                 

                     Being a Dancer(2001年)

| 16:14 | DVDなど | comments(0) | trackbacks(0) |